奥ゆ記

ヌーソロジー片手に奥行きを歩きましょう♪

第3話〜イデアサイコロジーレポート

《 Idea Psychology Report 》

〜第3話『タイプを見分ける前に(前編)』

 

僕らは母親の胎内からこの世界に生まれ出てきました。

 

その時の心の情景を語ることが出来るのは医者や心理学者だけでしょうか。

 

いま僕は自分の抱える苦悩を探求するために心の起源を知ろうとしています。

 

しかし、新生児の頃の心の情景が記憶から抜け落ちている。

 

それを取り戻すためには自分自身の霊でもってそこに立ち合ってみる必要があると考えます。

 

 

 

 

母体と一体だった頃には「外の世界」という感覚はない。

 

そして「一体」だという意識も。

 

胎児には「分離していた経験」が存在しないのだから、「外の世界」や「いま一体となっている」という意識は当然ないだろう。

 

人間の意識というのはこのように経験をもとにしている。

例えば「暖かい」というのはその直前までの経験と比較することで「暖かい」と意識される。

 

「経験的意識」

 

経験的意識は、比較や反復で生じる「幅」で構成されている。

だから本質と接点がない。

人間型ゲシュタルトはこの経験的意識で作られたもの。

 

つまり胎児に経験的意識は無い。

そうではない「意識」はあると思う。

母親のお腹を蹴っ飛ばすのはその意識。

 

胎児には純粋に「持続」だけがあるのだろう。

 

それは胎児と新生児をつなぐ持続だ。

 

その持続上にはじめて「経験的意識」が立ち上がると同時に、胎内の記憶は「経験」に置き換えられてしまうのだと思う。

 

 

新生児の持続に何が起こったと推測出来るでしょうか。

 


「僕は誕生とともに大きな産声を放った。

すると、今度はそれを押し返され息を吸う。

再び僕はそれを押し返した。

それを繰り返した。」

 


この呼気と吸気の繰り返し。

それをエスコートするかのように寄り添っている「何か」の存在がみえます。

 

いま新生児が一体となっているのは「膨張収縮する何か」です。

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新生児の霊(イデア)は膨らんだり縮んだりしている球体と隙間なく寄り添っていて他には何もありません。

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これは存在論的な存在です。

霊視、つまりイデアをみることによって確認しているのだといえます。

 

この存在が新生児にとっての「対象」のはじまり

 

初めての「世界」です。

 

この「世界」にその後の経験的意識が展開されます。

 

「膨張収縮するイデア」は最初の「経験的意識」です。

 

ただし、それは「最初の」という点で、その後の経験的意識とは異なり、「本質」とつながっています。

 

「膨張収縮するイデア」とあい対しながら、そこにはまだ「本質」が「胎内での一体感覚」を通してリアルに存在しています。

 

ここではこれをヌーソロジーの「元止揚空間」と対応させて考えていきます。

そして膨張収縮は「点球」ということになります。

 

新生児は点球と寄り添いながら、まだ元止揚空間とも接点をもっています。

点球を感じている経験的意識が元止揚空間を根拠にしているからです。

 

そこには大系観察子や脈性観察子のすべてが凝縮されています。

 

もしも新生児がこの時点から、点球の内側に身を移し、そこで経験的意識を連ねていくことにならなければ、人間型ゲシュタルトが作られることはありません。

 

膨張収縮内部では経験的意識がはたらきます。

前提として必ず「経験」が必要だということ。

つまりそれら「中和」が先手ではたらいている空間です。

 

そこに閉じ込められるのではなく、いつでも出入り可能にしておけば、元止揚空間はアクセス可能なところにあります。

そして点球を点球として相対し、その先を観察する足場も失ってないのです。

 

ただしずっとそのままでは僕らのように経験的意識を楽しむことが出来ません。

人間としての喜びや楽しみを持ったまま、いままさにその位置に立ち戻ることが理想なのではないでしょうか。

苦悩の原因もきっとそこにあります。

 

それは出来ると考えています。

 

僕らはなぜ中和先手の世界に身を移したのでしょうか。

そして元止揚空間はまだどこか近くにあるのでしょうか。


『タイプを見分ける前に(後編)』に続きます。