奥ゆ記

ヌーソロジー片手に奥行きを歩きましょう♪

第2話〜イデアサイコロジーレポート

《 Idea Psychology Report 》

〜第2話『エニアグラムとは』


春井星乃さんのブログでイデアサイコロジーに出会って、もっとエニアグラムを知ろうと思い、本を買って読んでみたのですが最初はどうもしっくりこなかったんです。

 

 春井星乃さんの「星乃かたちみ」↓

 http://hoshinokatachimi.blog.jp/


そこでもう一度春井さんのブログを読み直したらやっぱりよくわかる、合点がいくわけです。

 

簡単にいうとエニアグラムというのは人間の性格についてのタイプ論なのですが、この違いはいったい何なのかを比べてみたところ、世間一般のエニアグラムには「空間的な視点」が不足しているように思いました。


「空間階層的な思考」をすることがいかに大切かがわかったのでした。


皆さんにも、この「空間的」という感覚と、イデアサイコロジーはめっちゃ面白いということを知ってもらうのが今回の目的です。


では早速始めたいと思います。


さて、生まれたばかりの赤ちゃんと僕たちとでは、どこが違うのか考えてみてください。


赤ちゃんというのは「無垢」ですよね。

まさに欲求や感情を「そのものとして」生きています。


前もって構えたり加減することを知りませんから全てが体当たりですね。


それが赤ちゃんの本質であり、僕たちとは絶対的に違う点ではないかと思います。


ところで皆さんの周囲には、そのような無垢のまま大人になってるお友達がいますか?


おそらくいないでしょう。


「欲求や感情をそのものとして生きている人」を「大人」とは言いませんよね。


なぜなら大人とは、この「欲求や感情をそのものとして生きないようにしてる人」のことをいうからです。


つまり、「無垢なまま」で現実に直面することがないような何らかの配慮があるわけです。


今回は、この「配慮すること」に焦点を当てていきます。


だいたい赤ちゃんみたいに無垢な大人がいたら大変ですよ。笑


挨拶するたびにキャッキャ笑い、注意するたびにワンワン泣くわけですから。

職場にそんな人がいたら面白いですけどね。笑


話がそれてしまいました。笑


さて、その「配慮」ですが、


それは既にこの赤ちゃんの頃に始まっています。


ここからは実際にその立場を想像してみてください。


生まれたばかりの新しい世界で、欲求や感情をそのものとして生きている赤ちゃん。


でもその欲求は、すぐに受け入れてもらえないこともあるし、しつけのために否定されることも当然あるわけです。


どこの家庭でもそうであり、親にとっても、そうする事が当たり前ですよね。

しかし、そのときの赤ちゃんの心の中で実際に何が起きているのかは、「一般的に」ではなく「本人目線」で考えてみないとわかりません。

やってみましょう。

 

赤ちゃんの世界は、それまですべてが許されていて、一点の疑いも存在しません。


欲求と感情の躍動。

それがすべてであり、

世界は希望そのものです。


そしてそれは突如として起こります。

 

 

それが何であるかさえ全くわかりません。


「なんじゃこりゃ〜!!」って感じだと思います。

「ビックバン」ならぬ「ビックリ!バーン!」です。笑


気が付いたらいきなり大人側の世界に放り込まれていて、目の前は既に「別世界」です。


この「断絶」を境に無垢な方の赤ちゃんは死んだのです。


これは決して比喩で言ってるのではなく、この体験がその後において「死というものに当てはめる観念」の原型として働くように思います。


ここで言ってるのは、理想的な「本来の死」のことではなく、僕たちが恐れている方の「死」ですね。


赤ちゃんは、自分に起きたこの「断絶」の記憶を、その後「死」として恐れるようになるということです。


これがエニアグラムでいう「根源的恐れ」の始まりではないかと考えてます。


そして「死」が世界のどこかに存在するようになってからは、無垢のままでいることに「恐怖」を生じます。

断絶した記憶に対する恐れから衝動的に「無垢ではない状況」を「欲求」するようになるわけです。


※ちなみに仏教ではこの断絶を「随眠(ずいみん)」と呼び、この断絶の記憶にたいする「恐れ」によって僕たちが衝動的に立ち上げるものを「煩悩」だとしています。


この時期(0〜1歳半)をフロイトの言葉で「口唇期」といいます。

僕たちはその後、「肛門期(1歳半〜3歳)」「男根期(4歳〜6歳)」においても、常にこの「恐れ」に動かされています。

そしてそこから逃れたいという欲求から、わらをも掴むようにしているうちに、それぞれ「独自の行動パターン」が身についてしまうのです。

これが「配慮」の始まりです。

僕たちは、そこで「行動パターン」を使うと「無垢」から変身できます。

そのことを「恐れから逃れることができた」と錯覚し、その行動パターンに取り憑かれ、永遠に囚われることになります。


常に「囚われのパターン」で行動し続けていくことで、いつしかそこに、リアリティーを持った「別の世界」が作られてしまいます。

そこを抜け出せないでいるということです。


しかしこの「囚われのパターン」に「気付いていく」ことで、作り上げてしまった「別の世界」を解放していくことが出来るんです。


もうお分かりだと思うのですが、これがイデアサイコロジーにおけるエニアグラムの役割です。


エニアグラムでは、この「囚われのパターン」には人によって「9つのタイプ」があるとされます。


エニアグラムの扱う「性格」とはそのようなものなんです。


具体例をあげると、僕のタイプ「タイプ5」は、空気が読めてない状況に「根源的恐れ」を予感します。


「空気読まなくちゃ!!」という強い衝動から、「調べる」ということを行動パターンに選ぶタイプです。


「調べる」といっても、「検索する」というようなニュアンスではなく、まず「考えるための間合いを確保する」という感じです。

よく「まだ考え中です!」といって即答をパスしますよね。

パスすることで「恐れ」は一時的になくなりますよね。

これを錯覚するわけです。

つまり「調べる」(思考に逃げ込む)ことで恐れはなくなる」と錯覚して今度はそれに取り憑かれてしまうんです。

正しい情報が出ようと出まいと「調べること」自体が目的になってしまっているということですね。

 

それによって自分の人生がダメになろうともとにかく調べ続けるんです。

それほどに「囚われ」ているわけです。


また、先ほども言ったように「考える間合い」を確保しなければいけませんから、現実から距離を取るようになったり、「傍観者」となって周囲から「孤立」していきます。

 

孤立してるおかげでそこにまた考える時間が山ほどありますからさらに孤立してしまいます。


この例のように各タイプはそれぞれ「別世界」をエスカレートさせてきているのです。


そしてそこにいる自分を本当の自分だと思っているわけです。

 

それが「自我」ですね。

そしてそこは「Ψ6」です。

    💡

説明します。

 

ヌーソロジーでは、オギャーと生まれた赤ちゃんが成長していくところを、「Ψ10」がΨ1〜Ψ8を順次なぞっていく様子として対応させています。


つまり「Ψ3〜4」をなぞるあたりが 口唇期、「Ψ5〜6」が 肛門期、Ψ「7〜8」が 男根期です。


人間はこの3つの時期のいずれかで身につけた「囚われ」によって行動してますから、その行動パターンではその先には進めません。

 

そこから抜け出せずに行ったり来たり、反復しているわけです。

 

本人の目線では常に前の視界しか見えていないから、自分が閉じ込められてるとはわかりません。

 

しかしはたから見ると、つまり「見られている空間」ではその様子が浮き彫りにされますよね。

 

人間から見ると「Ψ6」という次元にそれが映されて見えるわけです。

 

そしてその「自分の見え姿」に還るべき自分を見つけてその中身でいようとしてるわけです。

これが「自我」の成り立ちです。


先程の「Ψ10がなぞる」というのがわかりにくかったと思うので、これも説明します。

次のような状況をイメージしてみてください。


仮に赤ちゃんがエデンの園に生まれていたらこの「別世界」に放り込まれることはなかったかもしれませんね。

 

その楽園では、赤ちゃんの「健全な精神(ヌース)」は成長とともに次元観察子を滞ることなく周回し、さらに大系観察子、脈性観察子の世界へと進み、龍のように悠々とすべての観察子構造をつねに巡回、回帰していることでしょう。


たとえ宇宙の果てだろうが、2万6千年であっても10万4千年であってもひとっ飛びなわけですね。


しかし、人間の世界では、先ほどからお話ししてるように、精神がΨ3〜4、Ψ5〜6、Ψ7〜8のいずれかで囚われて、そこで停滞してしまってます。

 

もしもそこで停滞することなく順調に「なぞって」いくことが出来たらそれが健全な成長だといえるわけです。

「なぞる」はそういう使い方で用いられてます。

 

このようにヌーソロジーイデアサイコロジーを絡めて思考すると双方の解釈にものすごく役立つのです。


これを読んで、皆さんの中にはこの「次元観察子」の風景が、半田広宣さんが説明するものとはなんとなくイメージが違うと感じられた方がおられると思います。

最後にこのことについてお話しします。


ヌーソロジーは目の前の空間に対して「顕在化」の視点からアプローチしていきます。

つまり「変換人型ゲシュタルトで見える世界」を語っていくわけです。


それに対してイデアサイコロジーは「潜在化」の視点からアプローチしていきます。

「人間型ゲシュタルトで見える世界」を語っていくわけですね。

それは僕たちの「現実」を語っているということになります。

 

この違いだと思ってください。


ここで言いたかったのは、これが「僕たちの現実」と「ヌーソロジーの世界」との唯一の接点だということです。


前回の投稿で、「イデアサイコロジーは、観察子の世界と現実とのギャップを埋めてくれるもの」とお話ししました。

 

 前回の記事↓

 https://nobiyan.hatenablog.com/entry/2019/11/16/152702

 

それは、次のような経過をたどるのではないかと考えてます。


僕たちは、潜在化して掴みどころのない「自我」というものにいつまでも閉じ込められているのではなく、


例えば今回のように人生の切り口にフォーカスし、それを空間的にとらえることによって、自我をアプローチ可能なものとする。


そして、自我には短所ばかりではなく、逆に「囚われ」によっていつのまにか築き上げている「長所」もあることを知る。


その長所を使って自我を社会の中で活かす方向に持っていくことが、ヌーソロジーでは「等化」ということになり、

 

それによって次第に自我が解放されることで、自ずとそこにヌーソロジーの「顕在化の視界」が開けてくることになる。

 

きっとこういうシナリオだと思います。

 

長くなりました。最後までお付き合いいただきありがとうございました。😊

 

顕在化をめざす僕たちにとって、イデアサイコロジーがとても役に立つということがお分かりになったと思います。

 

みんなの力で作っていくことで、より早く、良いものになっていくのではないかと思います。

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