奥ゆ記

ヌーソロジー片手に奥行きを歩きましょう♪

ミミズと絵画

ミミズには目が無いから、絵画アートの鑑賞は出来ません。
しかし、初めから無いのだからそれを苦とは感じません。

 

また、絵画という楽しみが他の誰かにはあるとも考えないから、やはり目や絵画が無いという苦しみもありません。

 

つまりこれは「目が無いという事実自体が無い」ということなのですから、ミミズにとってそれらは「有るのでもなく、無いのでもない」といういい方になるでしょう。

 

絵画の存在は、その全てが視野の世界に包まれていて、視野の世界が無くなれば絵画の存在も同時に残らずなくなるという構図になっているわけです。

 

このような「存在の因果関係」のことを「此縁性(しえんしょう)」といいます。

 

これは実は釈尊が発見した、娑婆世界(幅の世界)を解脱し、涅槃(奥行きの世界)に至るための必携ツールなのです。

 

もう少し理解を進めるために、娑婆世界の法則と比較してみましょう。

 

娑婆世界を支配する「相依性(そうえしょう)」という法則によると「絵画がそこに存在する原因」は例えば「絵描き」です。

 

しかし、「絵描き」だけが原因ではなく、
「絵の具やキャンバスの製作者」
「絵の具やキャンバスの物質としての性質」
「そこに絵画を運んで来た運転手さん」
「筆を動かす手の筋肉の力」
「絵を描いて欲しいという注文」
…などなど数え上げたらキリがないのです。

 

つまり相依性(そうえしょう)を法則としている娑婆世界では、「原因を特定出来ない」という問題があり、存在の関係性があやふやになっていることがわかります。
そのあやふやな所に様々な妄想が生じています。

 

つまりこういうことです。
相依性(そうえしょう)の場合は「絵画とその原因となるものとの関係」が何らかの「関与」を接点としていて、その関与が「空間と時間」(幅)として生じています。

だからそれによって娑婆世界ではその後自分の思考が生み出した妄想の中で暮らすことになります。

 

それに対して、此縁性(しえんしょう)でみている世界はそれらが「次元階層的」になっており、互いに関与せずに「存在し合っている」ことから「空間と時間」(幅)が生じないことがお分かりになると思います。

 

物事を常に此縁性(しえんしょう)で見たり思考することで自分の空間から「幅」を無くし「奥行き」(存在の階層性 = 観察子構造)に置き換えていくことが目的です。

 

そのようにして次第に幅の世界で生じていた受動的な妄想は無くなり必然と能動的思考へと切り替わっていくわけです。

 

此縁性(しえんしょう)は奥行きの空間における因果法則、相依性(そうえしょう)は幅の空間における因果法則、このように比較するとよくわかると思います。

 

仏教でお馴染みの「十二縁起」の項目はそれぞれがこのような「存在の階層性」であり、そこでは幅のもとになっている物事同士の勝手な関与が一切否定されているというわけですね。

 

本来仏法はこのようにヌーシストにとってとても便利なツールなのですが、いかんせん今日ではこれが宗教色を帯びるとともに学問的な体系に成り下がってしまっていて、概念も今風でないことから私たち自我なま身の思考にぜんぜん反応しませんよね。

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釈尊はこのような哲学の場で、きっと弟子たちとともに語り、奥行きを楽しんだはずなのです。