奥ゆ記

ヌーソロジー片手に奥行きを歩きましょう♪

イデアサイコロジーにみる方法論

 


エニアグラムを学ぼうとするとき、「性格」というものを正しく解釈することに成功すれば、春井星乃さんが提唱するイデアサイコロジーによってさらにその先に進むことができると考えてます。

エニアグラム占星術によって自我の向こう側を知り、目指すところは「死の顕在化」ということになります。

ヌーソロジーではΨ13による観察意識を持つということです。

Ψ13は「定質と性質の等化」ともいいます。

少し難しそうですが、この辺りから入ってみたいと思います。

 

定質と性質の話になってくると、実は「名称」について考える必要があります。

このあたりは軽く読み飛ばしてください。

ここで「名称」と呼んでいるのは「名称」という名称をあたえられているもののことです。

今日は詳しくお話しできませんが、個人的には、オコツトが「付帯質」と呼んでいるものと深く関係していると考えてます。

皆さんも時間のあるときにゆっくりと思いを巡らせてみてください。

 

今日のところは「性格」を解釈するために、仮に「怒り」というものを取り上げてみます。

 

この「怒り」と呼ばれているものも、他のあらゆる「名称によってあらわされているもの」と同様に、観察の次元によって見え方が全く異なってきます。

一体何を言いたいのかというと、こういうことです。

 

言語空間でもある次元観察子「Ψ9」では、「怒り」とは、「感情のひとつである」と観察されます。

「概念的」といえます。

 

そして知覚空間である「Ψ10」では、「そのもの的」に怒りそのものが観察されます。

そのもの的に怒りそのものが観察される、とはどういうことかというと、例えばここで僕が皆さんの頬をピシャッと叩いたと想像してください。すると皆さんの中にあるものが立ち上がってくると思います。

皆さんが変な趣味の方でなければ(笑)、それは「怒り」が「そのもの的」に観察されているわけです。

 

このように「怒り」や、その他の様々なものも、「Ψ9」「Ψ10」という観察次元によって、どういう違いで観察されるのかをしっかりと自分のものにしてみてください。

 

次に「Ψ12」ではどう観察されるのでしょうか。

「Ψ12」では、「人間が怒りを感じている様子」を他者の視線で「そのもの的」に観察しています。

ですから観察する内容は「反応の強さ」や「感情の高まり」ということになります。

「他者が怒りと接している様子を、(その人の性格として)自己がそのもの的に肌で感じている」という感じです。

それを自分に当てはめたりもします。

 

次に「Ψ11」ではどう観察されるのでしょうか。

「Ψ11」では、「Ψ12」と同じく「他者の性格」として「怒り」が観察されるのですが、それは「あの人は(または、人間というものは)、こういう事が起きると、こういう怒り方をする」というように「意識のあり方として」「概念的」に観察されます。

「Ψ12」と同じくそれを自分に当てはめます。

 

その観察はある意味で、「Ψ9」の観察結果と「Ψ10」の観察結果をごちゃまぜにせずに引き継ぐことに成功しています。

 

それに比べてΨ12の場合、「反応」は強さとして、「感情」は高まりとして、常に「幅的」に観察されています。

その幅的な観察結果は、自我が自分の意識を成り立たせるための要素として常に必要としているものです。

(ちょっと古いですが)「どんだけぇー!」という比較結果だけが認識の基準であり、自我はそこに価値を認めているわけです。

 

偶数系の次元観察子というのは、自我が、観察結果を「自分の肥やし」として成長させている様子でもあります。

「自我」というのは、「わたし」が「人間の意識」を持つための3次元世界用の存在形態みたいなものなので、常に「幅」的な思考の中に生じ、それに反応し、その刺激の獲得を目指します。

 

それは次のΨ14でも同じことが言えます。

「Ψ14」では「Ψ11」と「Ψ12」の観察結果を、自我が肥やしとする目的で「中和」しているため、「こうこうの性格の人にはこういう対応をしましょう」とか「こうこうの性格の人はこういう仕事に向いてません」という観察をします。

これは自我にとってはとても役立つ観察結果です。

いわゆる世間一般の性格診断や占星術などはこのレベルを超えることが出来ていないのではないかと考えているわけです。

そして、このことは「自我を中心に置いている」という点ではあたかも「個」が尊重されているように見えるのですが、実は「本当の個」はそこにおいて殺されているのです。

それはΨ13でみると明らかになりますが、Ψ14は「死の潜在化」です。

「死んでいること」も「何が死んでいるのか」も潜在化しています。

 


冒頭でお話ししたように、「性格」というもののそのもの性「Ψ12」を「Ψ14」に回収されるものとしてではなく、「Ψ13」に導かれるものと意識してしっかり観察しておかないと、それは自我の肥やしとなる運命をたどります。

 

そして、「Ψ14」で観察される「Ψ12」と、「Ψ13」で観察される「Ψ12」は、どちらも同じ「性格」ですが、「Ψ13」において「Ψ11(定質)」との等化を目的とした「性格」であれば、「Ψ14」における中和の「Ψ12」との間に「自我」が差異化されてくることとなり、それがその後の最も重要な道しるべとなります。

それが「性格」と「自我」の不思議な関係です。

「性格」を明らかにすることで、実は「自我」に輪郭を与えることに成功しているのです。

人間は常に、自我によって作られた世界の中で、「見られる」という位置付けに苦しめられているのですが、ここにおいて初めて「自我を観察できる位置」に立つことが出来るわけです。

「自我」というのは本来、「滅するべきもの」なのではなく、「ヒト」となるために「人間によって観察されるべき最後のもの」なのです。

なぜかといえば、もうお分かりのように「わたし」にとっては「自我」にしか、その先「あなた」が示されている手がかりはないのです。

それが、性格というものを「自我のそのもの性」としてみることが顕在化のために最も有効な方法だと考える理由です。

そして「性格」を、『Ψ13において「定質」との等化をされるもの』、つまり『性質』として目を凝らすとき、「性格」は「一義的」なものとなります。

それは『わたしが生まれてから死ぬまでに接するものは、例外なくすべて「性格」である』という観点を持つことになります。

それが、ヌーソロジーが言うところの「素粒子が人間の無意識構造である」という考えを容易にし、イデアサイコロジーは量子学的にここでヌーソロジーと接続されていきます。

 

つまり「性格」は「素粒子のそのもの性」ということにもなるわけです。

素粒子が構成している「万象」は全て「性格」を持つものですよね。

「喜び」や「悲しみ」など自分の感情の対象となる物質はもちろん、電柱やガードレールも「性格を無くしてあるという性格」というわけです。

そして「Ψ13」で等化される「定質と性質」とは、顕在化の道を歩もうとしている自我の目には「万象と性格」として映っているものだといえます。

実際に目に付くものすべてを「性格」として見てみてください。

そしてその性格を見せているのは「万象(現象)」ということになります。

僕の場合、人の動きも車の動きも、「すべて天体の運動と同じなのだ」として視てみると、割と「万象」のイメージを掴むことができます。

つまりその「万象」に「性格」を感じ取っているのが、その時点での「自我」という感じです。

つまり「性格は自我」「自我は性格」という感覚のレベルです。

そうやって次第に自我をコントロール出来るようになるのではないでしょうか。

 

「性質」はヌーソロジーの定義では「進化とは逆向きの力」となっています。

それが「逆向き」であると定義されているなら、「逆に利用する」ことで逆に「進化とは何か」がわかるということです。

春井さんはおそらくその成り立ちに目をつけて「ヌーソロジーは顕在化から、そしてイデアサイコロジーは潜在化から(同じところを目指している)」とおっしゃっているのではないかと思うわけです。

 


イデアサイコロジーは、「性格」をこのように定義し、「性格診断」や「占星術」を使いますが、それらは世間一般に見られるところの「Ψ14に回収される類いのもの」ではないというのが僕の解釈です。

 


まだ上手く整理できてないので、次々と書きまくってしまい乱文となりました。

自分でもよく読み返して、きちんと整理していきたいと思います。

ありがとうございました。^ ^

f:id:Nobiyan:20190725215431j:image