奥ゆ記

ヌーソロジー片手に奥行きを歩きましょう♪

仏教から解いてみたエニアグラム

先日Facebookにも投稿しましたが、6月の福岡ヌーソロジー研究会は、春井星乃さんによるイデアサイコロジーに触れる事が出来、たいへん貴重な機会となりました。

エニアグラム占星術についての解釈が深まり、そこに可能性を感じている今日この頃です。

 

占星術に関してはまだまだこれからですが、今の段階でエニアグラムについて特に言えることは、それが釈迦の哲学と同じような枠組み、ヌーソロジー的に言えば、同じような空間構造を持ち、その「階層性への参画」に学びの方向を持っているのではないか、ということです。

ここでいう階層性というのは、当然「ピラミッド的なもの」でも「ツリー的なもの」でもなく、潜在化や顕在化として接することになる「奥行き的な階層性」のことです。

 

今日はそれを少しお話ししてみたいと思います。

 

ここでポイントとなっていくのは「性格と自我の関係」で、それがやはり「奥行き的な階層性をなしている」という点です。

どういうことかというと、自分のものにしても他人のものにしても、性格というものを認めてそれについてうんぬんしているとき、その人は当然「自我」というものの存在を認める立場をとっているわけです。

なぜなら性格というものは「自我」が何らかの形であらわれ出ているものだからです。

つまり「そこに自我があるとき性格がある」そして「そこに自我がなければ性格はない」ということです。

ここでしっかりとイメージしたいことは、私たちが性格について思惟を始めた時、同時に自我が存在を始めており、その自我は任務を終えるまでそこで活動することになるということなのです。

ここでいう「任務」というのは、自分の生命を維持するためや、より良く生きるために何らかの行動を決断し、成果をあげることです。

一見それは正しい役割のようにも思えますが、自我は「他者の存在意義」に無知なので、社会生活において、「自他間の矛盾」や「情動」を増幅させることになります。

それらは私たちにとって好ましくないものであるとともに、顕在化や潜在化している状況を覆い隠し、盲目させているものだといえます。

 

自我を無視していくら性格分析を行っても結局のところその分析は「性格(=自我)が行なっている」のでしかなく、他者性を無視した行動を選択してしまうということになります。

 

皮肉なことに「自我」というものはこうやって「潜在化」という形を与えられること、つまり「水面下に忘れさられていること」によってその本領を発揮してしまいます。

 

性格というものがこのように操作しても無意味なものであるなら、エニアグラムは一体何のためにあるのでしょうか。

 

それは、9つの性格のタイプを「知る」ということに尽きる、と考えています。

つまり、その情報をもとにした思惑に基づいて見解を持ちそこに手を加える、といった関与をしないということです。

そこに生じている性格をただ見て、「ああ、タイプ5だな」という具合に、それをそれとして知ることが出来るようにするだけです。

 

ですから例えば書籍などによって性格のタイプを「知識」として取り入れたら、あとは無意識に「任せる」というような方法になります。

これは先程から言っている「自我に活動させない」ことと矛盾するように聞こえるかもしれませんが、決して放置しているわけではなく、「自己責任において任せる」ということが「無意識というものを自己の管理下に含め置く」という手法をとっていることになります。

 

つまり、これまでのように自分の意識が自我に踊らされるのではなく、エニアグラムの知識を与えた自我がどうなるか、ノータッチでその経過を見てみようとするようなものです。

 

エニアグラムに釈迦の思想と同じようなものが構造として垣間見れるということは、必ずその方向性を持っていると考えています。

釈迦は縁起という思考法において「無我」を説きます。

「無我」とは、決して「自我を無くした状態」をいうのではなく、「自己ならざるもの」であろうとしていることです。

つまり「自己」をきちんと定義した上で「そうではないもの」に住しているということであり、そのためには拠り所としての自己が必要なのです。

そして認識できる段階のものとして「自我」や「性格」というものが絶対に必要になります。

エニアグラムはその観点から「無我」に向かおうとするものなのではないかと推測しているわけです。

この辺りの説明を上手にするにはまだまだ研鑽が必要ですね。汗

 

まとめ

エニアグラムの情報、つまり9つの性格は人間が持たされているゲシュタルトで思考うんぬん出来るものではないと考えています。

なぜなら人間の思考は性格に基づくからです。

ですから人間の思考で性格を操作しようとするのは無理なのです。

ここで言いたいのは、エニアグラムは性格を「言語」によってではなく、「知覚」的に捉えようとするものなのではないかということです

もし性格がそのまま「言語による思考の流れ」に入ってしまうと「矛盾化」「情動化」してしまいますが、「知覚による思考の流れ」に入れることで「幾何学化」「情景化」することとなります。

それが「性格」に対する本来の捉え方なのではないかと考えてます。

 

性格というものは「知覚空間にみるべきもの」だということです。

エニアグラムは、それらが知覚に上がってくるように、知識として9つのタイプを「見え姿」として文章化してくれているのではないか、ということです。

ただし、私たちは常に何らかの矛盾や情動の中に身を置いている状況にありますから、そこから一歩下がって「性格」と呼ばれている対象を知覚として浮き彫りにするには多少の努力は必要となってくると思いますが。

 

9つのタイプがそれぞれ空間に知覚化されてくると、人間関係は空間構造を通しての成り立ちに集約されます。

そこにおいて純粋な自己と他者のやりとりに目がいくようになれば、思考や意識はこれまでと変わらざるを得ないと思います。

 

性格というのは貴重な「自我の後ろ姿」ということですね。笑

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