奥ゆ記

ヌーソロジー片手に奥行きを歩きましょう♪

クロスロードとしての思弁的実在論

最近は哲学を、ほんとに少しずつですが読めるようになってきて、この度のヌースアカデメイアのメルマガにも掲載された半田広宣さんの紀要論文も、大筋の意味を解しながら目を通すことが出来ました。

その中で紹介されている思弁的実在論者メイヤスーの一文が自分のイメージに登場してくるワンシーンと一瞬重なって見えたのです。

私の解釈がメイヤスーの意図することかどうかはその著作をまだ読んでいないのでわかりませんが、問題はメイヤスーと同じ行き先に向かっているかどうかではなく、そのワンシーンを思考の交差点として共有しているのではないかということです。

紀要論文の引用から始めさせていただいてます。

 

以下引用

『従って、メイヤスーが提唱する思弁的実在論の世界では「あらゆる世界は理由なく存在し、したがって、あらゆる世界は実際に理由なく他の在り方に変化することができる。それには一切理由はない」(7)ということになる。』

以上引用

 

メイヤスーの「世界が理由なく存在する」というのは「世界がその自らに理由を存在させない」という手段によって「そこで人間が理由を創作していくためのフォーマット」を目的している、ということを言いたいのではないだろうか。

これではまだ説明不足だと思うので続ける。

「理由」という言葉の意味は「目的」という未来と「由縁」という過去の両方に分けられていく。

どういうことかというと、例えば、ストーブなどが「温かい理由」は、「人が暖をとるため」という「存在の目的」と、もう一方「灯油を燃やしている」という「存在の由縁」という二つにある、ということだ。

そして問題の「理由がない」という言葉は、それを「何々の理由がない」ということにすり替える事をしなければ、「理由がない」、のそのままの意味は「存在の目的」と「存在の由縁」の両方がないということ。それはつまり、決して「存在がない」と同義なのではなく、「目的と由縁の両方がない存在」つまり「未来と過去が無い存在」なのであり「意志と意識が無い存在」ともいえる、それは前回のブログにも記した「不在の存在化」なのだ。

 

まとめると、「世界は理由なく存在する」は「世界は理由がなくても存在する」というアクセントで読むのではなく、「世界は理由がないことで存在する」つまり「世界は理由の撤廃に存在の根拠をもつ」と読むアクセントで読むものであり、それは静的な「初めからの不在」ではないことが条件となっており、「理由の撤廃」、一歩譲っても「理由の消滅」が動的に起きているのである。

そしてここでこの消滅に関わることができるのは先述した「不在の存在」しかありえないのである。

この「不在の存在」とはまさしく「無意識領域」のことである。

 

前回のブログにはこの「理由が撤廃させられている世界」の事を「完全な自由運動」として表現し、それは我々の五感の付帯を待機するものであり、対象はそこで、決して「対象同士が相互作用をする場に見られる性質」の統一体としてではなく、「五感をはじめとする認識の性能にその存在投影の限定性を許し差異」として姿を見せている、ということを説明した。

そのシナリオの続きとして、ここにこの「無意識領域への存在論的接続」がなされるのである。

「無意識領域」に存在論的な連結部を見出せたことだけでも大きな進展だとは言えないだろうか。

そしてさらに「無意識領域は素粒子構造である」というところまでいければ、この思想は我々が世界を差異的対象として視るだけの十分な強度を持つことになると考えており、今後その作業に関わり、貢献出来れば幸いである。

 

〜いずれにしても私はメイヤスーを一度読む必要があり、ここで私の受け取ったこの「世界は理由なく存在する」という文を、メイヤスーへの方向転換の交差点とするのか、直進していく我が道の単なる通過点とするのか、是非見極めておきたいと思います。

 

文中引用

半田広宣氏

「思弁的実在論は哲学の暗殺者か」

ー偶然性の必然性と反転性の必然性というオルタナティブ

興味のある方は、ヌースアカデメイアの「Paper of Gilles Deleuze」のコーナーにも掲載されるそうですのでご覧になってください。

https://noos-academeia.com/archive.html

f:id:Nobiyan:20190406020432j:image