奥ゆ記

ヌーソロジー片手に奥行きを歩きましょう♪

量子論を含む最終的構成のための三者会談

完全な自由運動というものをイメージしようとするとき、何となく自由運動という言葉の響きからそこに「美しさ」や「躍動感」を想像するのだが、実際にはそれは反復動作や周期性、さらに持続性においても縛られていないという点において、実は取り立てて認識できる習性すら見当たらない、いわゆる、監視カメラが捉える意味のない動画のような「何でもないことの連続」ということになるのではないか。

問題はそのような様相は果たしてそれを視るものに何かしらの認識を与えることが出来るのかということだ。

反復もない、周期性のない、持続性もないという、記憶として前例のない「無感覚」によっては、そこに何かの習性を見い出すことはないだろう。

認識がないことの連続、それは覚醒のタイミングがないということ、つまり眠りと同じである。

しかし、まさにその眠りの様相が存在の唯一の住処なのではないだろうか。

存在の隠蔽性ということにおいてもそこは静かな背景となっており、意味も象徴も反復も持続も伴っていない様相にあって、それを何かの状態であると規定できるのなら、それは「存在の不在」ではないか。

存在の出自は本来、「このようなシーン」に我々の五感を「付帯」させるとき、それに関わる我々の諸器官の性能や精度、さらに目的として働いている思惑や見解以外にその対話の方法を依存する術はないのであり、その限定性によってのみ生成され発せられている感覚を「消滅されつつある自由」として読み取らなくてはならない。

 

対象というものは、それが被観察的な立場にあることから常に「様々な性質の統一体」として体(たい)を持ち、そこにその肖像を射影させているもののように視られてしまうのだが、実はそのような「存在の主張」が可能な余地は先述した理由からそもそも持つことが出来ない。「存在の不在する意味のない状態」即ち「自由運動」を我々に拘束され、その牢獄の中の姿として我々に受け取らせている「仕方なさ」や「自由運動における可能性消滅のジレンマ」の作用している方向に意味を置かれた感覚に他ならない。

だから、もともと別々の牢獄にいる対象同士は本来それぞれが差異の種子であったはずなのである。

ところがそれら複数の対象を「思惑」や「見解」という同じ牢獄の中に置くことによって、差異の種子を失わせるだけでなく、そこは囚人同士による相互作用が可能な余地を含むことから、我々がその「存在の抗争」を衝動として受け取る羽目になっているのだ。我々が「拘束されていることに持たされている存在の意味」言い換えると「非局所を起源とする局所」をそこに視ることができないのは、局所間で起きている喧騒の中にいるからなのだ。

我々が思惑や見解をもって生活するとき、対象を自由運動から隔離したという拘束の動機は、思惑や見解の動機と共に恥部の一部として隠蔽され、その認識行程からもみ消されているのである。

かくして、始まりは自由運動ではなく一義性として規定され、恥部の無さに胸を張る我々に存在の情報化と搾取の姿勢は整えられたのである。

 

我々が生活の中で、思惑を挟むことや、人や物を分け隔てするのをやめるとき、それらの個々に持たせていた「括り」が解かれ、個々は相互作用の余地を失う。再び拘束性による個別の牢獄が復活するようであるが、それは今や自由からの拘束ではなく「存在の抗争からの自由」となっており、牢獄ではなく宮殿の中の姿として差異の中に生じることとなる。

同時にその時、我々の意識の媒体は「差異の躍動」ということになる。

それを目的としている限りにおいて、我々が生活の中で、思惑を挟むことや、人や物を分け隔てするのをやめる力は、躍動である「生死の差異」に触れたい誰もが持つごく当たり前の習性による。

 

最後にふと思い出した釈尊臨終の言葉を紹介します。

「さあ、今、比丘たちよ、わたしは告げる。『滅する性質のものは、諸々の事象なのである、怠ることなく修行しなさい』と。」

これが、論理哲学が全盛期であった当時のインドの民衆を悉く歓喜させた教えであるということに感慨深いものを覚えます。

 

全てが出揃うことが前提である「最終的構成」には、新しい哲学や科学に加え、このような古い教えもその正しい解釈をもって、きっと大切な要素なのです。

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