奥ゆ記

ヌーソロジー片手に奥行きを歩きましょう♪

ものの居場所はおもてなし

こんにちは、村岡です。

忘れものの中に自分の傘を見つけるとき、名前が書いてあるとか、覚えのある傷があるとかの以前に、その傘が間違いなく居場所としていたはずの「空間」を感じとった、という経験はないでしょうか。

今日はこの辺りから奥ゆ記してみたいと思います。

もうひとつ例を挙げると、誰かに教わって知らない道を通って地元に帰るとき、「あ、この道、ここに繋がってたのかー」とわかる瞬間というのは、何か記憶にある目印を見つけるより先に、空間を感じ取っているということに以前から気づいていたんです。

物質とその所有者について考えるとき、その「体(たい)」の部分と本人が何かで繋がっているのではなく、本人がそれを購入したり自分のものにしたときに、自分の空間にそれが存在出来るだけの隙間を設けたはずなのです。

もちろん意識的にではありませんが。

それが所有していることの空間的な意味だと考えます。

だからそれが失われたとき、まさに無いはずの体(たい)の部分に未練が残っている訳ではなく、残された空間の隙間に、体(たい)が突然存在形態を変えたという量子レベルの変換が起きているのであり、その位置と無意識領域との間に、これから意識空間になろうとしているSU(2)という量子的な回転運動が待機しており、そのSU(2)の片側の席に、悲しみの主体として座らされるのが、持ち主であった自分ということになります。

別れることや失うことによる悲しみを受け止められないというのは、その量子運動から発展するであろう情動を自分の中だけで処理できそうにないという意味なのであって、人に波及させたりすることへの恐れから、失ったことを保留して考えないようにしている訳です。

愛する人が亡くなった時きちんと体(たい)のなくなった空間を認め、あつらえ、そこに花などのお供えをしたり、そこに空の量子運動を起こすお経をあげたりすることは、その空間においてその人が存在を始めたあの頃と同じ道筋で、その空間を量子レベルの変換によって、徐々に元の空間に還してあげるための小さな儀式だといえます。

でも決して想い出であるアカシックが無くなるわけではありません。

密教の「供養」という概念は本来そういうものだと個人的に解釈しています。

ですから供養のために用いられる十三仏真言の十三番目は虚空蔵菩薩という虚空の仏様の真言です。

さらにそのご真言「ノウボウ アキャシャギャラバヤ…」の「アキャシャ」とは「アカシック」の事だといわれています。

カバラ神秘主義でも創造とは「神の撤退」「光の収縮」が過程として説かれており、やはりはじめにそこに虚空が設定される事だということになります。

このように空間をどう捉えているかということは、生まれてから死ぬまでに目の前にする空間が、掌握できる一つの空間の変異として見れるのか、それともその都度出くわす分断としてしか見れないのかという点で、自分がはたして持続している存在なのかどうかということを決めている重要な事柄なのではないかと思います。

自分の持ち物を手にとって、これがいつから自分のものなのか、なぜ自分のものなのか、失うとはどういう事なのか、しげしげと眺めてみるのも空間瞑想になるかもしれませんね。

ひとまずは物の空間的な存在の仕方を反転させてみることは、それは意識と直結した量子的な作用の中に身を置くことにもなり、さらにこれから学ぼうとするその先にある高次の素粒子の形態をも、きっとごく自然なものとして解釈出来るようになるのではないかという、未知のものを学ぶにあたっての、意識の準備となります。

「かつて認識したことのない対象に関して最初にもつ確実な知識が認識方法である」(モークシャーカラグプタ著「論理のことば」)

モークシャーカラグプタというのはインド仏教最後期を代表する学者です)

物は初めからそこに「在る」のではなく、創造されているんですね。

光、つまり私の「無い」ところに。

存在の座をあつらえる、というわたしのおもてなしによって。笑

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