奥ゆ記

ヌーソロジー片手に奥行きを歩きましょう♪

存在〜反転の秘密より

太陽というものは空に見えるあの球状の存在だということ、特に夕日などに見られる象徴的な姿から、そこにあたかもあの広大な空間に浮遊するひとつの物質だという印象をもたされます。

 

前回の記事では、その背景に作用の自明性を推理してみることで、これまでと全く違う描写が出来ることを提案してみました。

前回の記事

https://nobiyan.hatenablog.com/entry/2019/01/05/224030

 

太陽の実態を台風を例にあげて、「その中心と全体で存在しているようなもの」と表現しました。

しかし僕らは一般的に直径約140万㎞といわれる球体部分のみを指して「これが太陽です」といってるわけで、実はこのことが今回お話しする「すべてが反転してしまっていることの原因」だと考えています。

少し長くなりますが、この辺りから奥ゆ記してみたいと思います。

 

太陽系が太陽??

可視化して眼に見えてる球状の部分を素直に太陽と呼ばないなら、どうすれば良いのでしょうか。

 

太陽からは膨大な量のプラズマが冥王星の軌道の外にいたる範囲に放出されているそうです。

プラズマというのは電気を帯びた粒子のことで、地球が持つ磁場とぶつかって様々な現象を生じています。

オーロラもそうですね。

ガスよりも「電磁場」というものを学術的な領野として重視すれば、太陽から放射されているプラズマの集まり「ヘリオ スフィア」の球体を太陽としてみるのはどうでしょうか?

その方が、むしろ様々な現象を理解しやすいかもしれません。

ただし、その場合太陽は冥王星の軌道をスッポリ包む超巨大な天体ということになりますから、僕らにとってもその存在の仕方が反転してきます。

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黄色が太陽で緑が僕たちです。笑

 

ガスの集まりだろうがプラズマの集まりだろうが、どちらも固体ではないということを考えると触覚の対象ではありませんよね。

それならば存在に意味を持たせる区切りとしてはどちらを採用しても問題ないと思うのです。

 

[  the sun   =   Heliosphere  ] =   👍

 

僕らは太陽の中にいる??

「 太陽   =   ヘリオスフィア

仮にこういう見方が出来るとします。

そこで地球と太陽という2つの天体をそれぞれ独立した相容れない存在としてトポロジー的に表現してみるとどうなるでしょう。

 

太陽という冥王星の軌道をスッポリ包む大きなプラズマの球体の内部に、気泡のようなものとしてポッコリ浮かぶものが地球として描写されます。

これまでとは全く違う存在の仕方になっています。
内側と外側が反転して、存在を表す実体側が反転させられています。

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地球は太陽が占める太陽系大の大きな球体の中で、気泡のように空洞部分として存在しています。

僕らはその気泡の球面に足の裏を当てて海の中に全身を突っ込んでいるというわけですね。

 

プラズマの海、それは光の海です。

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よく考えてみると、僕らは「地球に住んでる」と言ってますが、決してモグラのように地球の中に住んでいるわけではありませんよね。笑

確かに肉体は地球のおすそ分けのようになっていますが、月と同じ様に地球とは別の天体として明らかに地球ではなく太陽の中にいることがわかります

このように幾何学的に物事を捉えると別の世界が導き出されます。

 

前回の記事では、この大きな太陽の球体のさらに外部が僕らの「無意識の領域」で、それは科学が素粒子と呼んでいるもので記述されている世界だといいました。

ならば、逆にこの大きな太陽であるプラズマの球体の内部が「意識の領域」ということです。

ここで少し僕のヌーソロジー的な解釈をお話しすると、それが数学で記述されるヒルベルト空間であると考えてます。

その外側にある無意識領域を介して、球体の内部にアクセスが生じてるわけです。

そのアクセスを意識と呼んでいるのです。

さらにその解釈をもとに次のような展開をします。

 

全体構造として、プラズマはあらゆる所に遍満していますが、いくつかの神秘思想や密教の月輪観、ヌーソロジーの出自であるオコツト情報を付き合わせてみると、月には人間の身体を介して、個々のものに対し「プラズマの進行に対しての障壁面(しょうへきめん)」を与える役割を持たされており、その障壁面に交差するプラズマの「光変換」が即ち「物質を見る」ということとして現象化しています。

詳しくは後で述べますが「見る」という作用は、決して科学が言うように、意識が視線を使って始めからそこにある物質をサーチするというような様相で起きていることではなく、「光 = 見る = 僕」ということです。

太陽が物質ではなく現象であることに準じて、光も「見る」という現象だということを言っています。

そして「見る」が僕の存在形態ということです。

「僕が見る」ではなく「僕 = 見る」です。笑

 

 一方、気泡で示される個々のものの障壁面には、海からの水圧が働くようにして、プラズマが「重力」として変換されます。

重力とは「引力」という物言いにあるような地球の中心が持っているものではなく、このようにプラズマが障壁面で光に変換されたのと、もう一方のものとして生じていると考えることができます。

ここにおいては重力と光はそういう関係にあるといえます。

 

僕の意識は球体の中に遍満していて、月の位相が作る様々な障壁面での出来事、つまり物質以前の物と僕自身の構成素材であるプラズマの衝突によって、僕自身の変換性として存在しています。

このように意識とは自らがその外部を認識するのではなく、自らの内部で起こる光や重力への変換作用の経験、それが同時に時間の生成であり、その生成の過程として意識はこの球体の中を反復します。

これはヌーソロジーが「目の前はミクロの世界」といってることの風景だと思ってます。

だって、目の前は冥王星軌道の外から超フォーカスして覗き込んでる景色なんですから。笑

しかし僕らはその意識としてある時、この反復に囚われているのです。

月の位相が作る障壁面ばかり見て、自分の本当の姿を見ていません。

反転した宇宙観での思考はこの囚われを向こう岸である無意識から見るごとく球体の外、つまり時間の外部、無時間の世界へと存在を進めます。

そこで存在は人類のあるべき姿を自明なこととして体現します。

 

この新しい宇宙像は奥行きをつくる舞台装置の骨格や素材として提案しています。


次回は、果たしてこのような宇宙観が、僕らにとっての「人生」「暮らし」「今」というようなものと、どのような接続をみせるのか、という辺りを奥ゆ記してみたいと思います。

 

2019.01.08 加筆