奥ゆ記

ヌーソロジー片手に奥行きを歩きましょう♪

第4話〜イデアサイコロジーレポート

《 Idea Psychology Report 》

〜第4話『タイプを見分ける前に(後編)』

 

まだ目の見えない新生児にとって、世界との接点は限られています。

 

繰り返される呼吸の連続が唯一、一筋の線のようにして着々とその持続をたどっているかのようです。

 

その呼吸の中で、吐く息は「自分ではないもの」へと引き渡され、吸う息やお乳が、逆にその「自分ではないもの」からやってくるのです。

 

こうして、母親の胎内にいた頃には無かった「外の世界」というものが次第に形作られていきます。

 

そこにはまだ「相手」という具体的な対象はなく、身体感覚の向こう側に「自分ではないもの」が漠然とあるだけです。

 

意識こそはされませんが、その漠然とした世界というのは、口を境界にして「呼吸や飲食の対象」となっており、「吐いたり吸ったり」「求めたり飲んだり」するときの運動に対峙して膨張収縮するイデアとして、意識とは表裏の関係になっていると言えます。

 

前回の記事ではこのイデアは(顕在化の次元においては)「点球」にあたるとして説明しました。

https://nobiyan.hatenablog.com/entry/2019/11/30/222951

 

このように、口を通して世界とつながりを持っている時期を、フロイトの用語で「口唇期」といいます。

 

持続という一筋の流れの中においては、その後もその世界の中で経験が積み上げられることになりますから、そのイデアは大人になった僕らにもフレームのように根底にはたらいていると考える必要があります。

 

さて、やがて目が見えるようになってからも、磁場と電場の織りなすようにして、その膨張収縮のイデアが今度は次第に「視界」へと引き継がれていきます。

 

覗き込んでくる母親の顔やお乳の入った哺乳瓶、その他目の前に現れるあらゆる物が乳幼児にとっては膨張収縮するイデアとして映っているわけです。

 

まだ遠近感というものがありませんから、それらは実際に膨らんだり縮んだりしながら存在しているのです。

 

驚いたようにまん丸な瞳を凝らしてみせる仕草や、弾力性を感じる手足や全身の動きを見れば、乳幼児はまさにこの躍動する様々な球体のイデアに囲まれていて、あたかも身体をそこに同調させられているかのようです。


ずっと暗闇の中で対峙していたそれまでの静かな膨張収縮とは打って変わり、世界はまるで「ボヨンボヨン」しているイデアに溢れかえっており、それらと一体になって驚きや楽しさを伴いながら持続を紡いでいるのではないでしょうか。

 

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ところがある時を機に、それらのイデアが「名前」で呼ばれるという出来事が次々に起こってきます。

 

名称を与えられることよって、球体は躍動を止められ、言語空間の背後にまわされることになります。

 

イデアの膨張収縮性が「名称で固定されてしまう」ことによって、「遠く」や「近く」といった「遠近感」にとって変わることになります。

 

そこには当然距離が生じ、これまで幼児と一体だった世界は、距離で構成される3次元空間と、その中にポツンと置かれる「対象物」に分離します。

 

止められた躍動の代わりにその対象物は名前で呼ばれることを要請してきます。

 

名称を与えることで、それに応じた色形がもともとのイデアに付加され、それが対象物を象ることになります。

 

ちなみに仏教の「十二縁起」でいう「無明→行→識→…」に続く「名色(みょうしき)」というのは、この「名称と色形(しきけい)」の略のことで、このように人間型ゲシュタルトが働く過程を説明するための重要な要素として取り上げられています。

 

僕らはこういったいきさつによって、対象物から常に認識を要請される立場に身を移しているわけです。

 

言語空間では、「認識されるのを待つ」という方向性が物自体に働いているということです。

 

幼児はお母さんの言葉の教育によって、自然と「全部名前で呼ばなくちゃ」という意識を持つのだと思います。

 

「マンマ」

「パパ」

「ワンワン」

「ブーブー」

 

対象物に名称を与えると、周りの人達が飛び上がって喜んでくれるのです。

 


ハイデガーの著作に次のようにあります。

『人間はそもそも「言う」ことができるから、つまり、言語を持っているから動物と区別されるのです。』

(「ツォリコーン・ゼミナール」p126)

 

これがつまり人間の始まりなのかもしれません。

 

仮に人間型ゲシュタルトにアクセスしようと思えばここに立ち帰って、物を遠近感ではなく、膨張収縮として視る習慣を取り戻せば良いということになります。

 

ただそこに人間同士のしがらみが働いていると、そのような観方を出来る境界にはなかなかなれないものです。

 


そこに導いてくれるものがイデアサイコロジーエニアグラムだと考えています。

 


前回の投稿に引き続いて長々と胎児から幼児期までの心の風景を振り返ってきましたが、ようやく「タイプの見分け方」の説明ができる準備が整いました。

 


さて、幼児はその後の発達段階においてもこのような「言語空間」のフレームの中にいます。

 

また、生活の中で様々な不安や欲求に直面する時も、この「言語空間」での対処の仕方を問われているわけです。

 

大きな不安や不満に直面した時、僕らは本能的にその経験から最も信頼できる行動パターンを選択していきます。

 

その行動パターンが、この口唇期の「自分ではないものと自分との関係性」において取られているというケースが、これから説明する「口唇期タイプ」と呼ばれる3つのタイプです。

 

春井星乃さんがブログで「口唇期タイプ」というものを説明されていますが、それを次のように解釈しています。

 

まさに今、名称を与える直前の「物への視線」は、それが何であるか把握されることへ方向性を持たされています。

これは潜在化における「Ψ3」の風景です。

 

(なぜ「潜在化における」と言うのかというと、「名前で呼ばれる」ということ、つまり「対象化」することが前提「先手」となって働いている視線だからです。

「偶数観察子Ψ4が先手となっている流れにおけるΨ3」ということです。)

 

対象を「把握すること」によって不安や欲求を解決出来た経験を持ち、その後その行動パターンを信頼して逆にその行動パターンに囚われることになってしまっているのが「タイプ5」です。

 

「タイプ5」は、「把握すること」でお母さんに褒められたのかもしれないし、逆に把握できなくて叱られたのかもしれません。

どちらにしても「把握すること」「調べること」「空気を読むこと」を真っ先に考えるわけです。

 

次のタイプです。

「物への視線」ではなく「物からの視線」に対して、自分(の自己イメージ)が何であるかということに囚われているのが「タイプ4」です。

「潜在化におけるΨ*3」の風景です。

 

最後は、「どちらの視線も生じない」という無難なところに平和を見つけ、そこに自分が収まろうとする行動パターンに囚われているのが「タイプ9」ということになります。

「潜在化におけるΨ4」の風景です。

 

「漠然と物があるΨ3」

「漠然と自分があるΨ*3」

「漠然と世界があるΨ4」

これら3つの空間には、まだ「相手」というものが存在していませんから、「言う」というところまで至ってません。

 

このように「言う」ことの前段階で囚われにあっている口唇期の3つのタイプは、当然「あまり主張しない」「対話を避けている」という、どちらかというと「控えめな雰囲気」を特徴として持っていると言っても良いのではないかと思っています。

 

ただしこれは決して単純に「おとなしい」という意味ではなく、「状況から自分を遊離させる行動パターンに囚われている」ということです。

 

それは、次の肛門期の「自己主張型」の3タイプや、男根期の「追従型」の3タイプと比較することでイメージがより掴めてくるのではないかと思います。

 

肛門期タイプである「自己主張型」は先程の言語空間において「相手」に対して「言う」ことによって最大の不安や欲求を対処出来た経験を持つことから、「主張すること」を信頼できる行動パターンとして選択し、そこに囚われ続けているタイプです。

「タイプ8(Ψ5)」「タイプ7(Ψ*5)」「タイプ3(Ψ6)」です。

 

そして男根期タイプの「追従型」は、さらに成長したところで、「従ったり従わせたり」することによって最大の不安や欲求を対処出来た経験を持つことから、「追従」を信頼できる行動パターンとして選択し、そこに囚われ続けているタイプです。

 

よくお母さんが「〇〇しなさい!」「〇〇しなきゃダメじゃないの!」と叱りますが、それに従ったことや、お母さんの真似をして周囲を従わせることで不安や不満が解消した経験があるのかも知れません。

「タイプ2(Ψ7)」「タイプ1(Ψ*7)」「タイプ6(Ψ8)」です。

 

誤解の無いよう補足しますが、これらは決して、それぞれ「口唇期」「肛門期」「男根期」で囚われにあって、そこで成長が止まってしまっている、ということではありません。

小学生になるくらいまでに決定される行動パターンが、その「口唇期」「肛門期」「男根期」のいずれかで作られた空間形式の中で見出されている、ということです。

 

個人的にはこれら「口唇期」「肛門期」「男根期」のタイプ分けが比較的最初の「ふるい掛け」としてはわかりやすいのではないかと思っています。

 

簡単に言えば、「存在感」として「控えめな人」なのか「主張する人」なのか「従ったり従わせたりする人」なのか、ということです。

 

もしかしたら、僕自身がどちらかというと控えめで、常に相手との距離を取りたい「タイプ5」なので、相手がこの中のどれかというのを重要な情報と考えてしまいますから、個人的にこの見分け方が鍛えられていて、勝手にわかりやすいと思ってるだけなのかもしれません。笑

 

エニアグラムには9つ全部を3つに分類する方法がいくつかありますので、各々が得意な方法で2回ふるいに掛ければタイプを特定することができると思います。

 

次回はそれを紹介したいと思います。

 

 

春井星乃さんのブログ「星乃かたちみ」での解説はこちら↓

(「口唇期」から順に解説されています)

http://hoshinokatachimi.blog.jp/archives/3019801.html

第3話〜イデアサイコロジーレポート

《 Idea Psychology Report 》

〜第3話『タイプを見分ける前に(前編)』

 

僕らは母親の胎内からこの世界に生まれ出てきました。

 

その時の心の情景を語ることが出来るのは医者や心理学者だけでしょうか。

 

いま僕は自分の抱える苦悩を探求するために心の起源を知ろうとしています。

 

しかし、新生児の頃の心の情景が記憶から抜け落ちている。

 

それを取り戻すためには自分自身の霊でもってそこに立ち合ってみる必要があると考えます。

 

 

 

 

母体と一体だった頃には「外の世界」という感覚はない。

 

そして「一体」だという意識も。

 

胎児には「分離していた経験」が存在しないのだから、「外の世界」や「いま一体となっている」という意識は当然ないだろう。

 

人間の意識というのはこのように経験をもとにしている。

例えば「暖かい」というのはその直前までの経験と比較することで「暖かい」と意識される。

 

「経験的意識」

 

経験的意識は、比較や反復で生じる「幅」で構成されている。

だから本質と接点がない。

人間型ゲシュタルトはこの経験的意識で作られたもの。

 

つまり胎児に経験的意識は無い。

そうではない「意識」はあると思う。

母親のお腹を蹴っ飛ばすのはその意識。

 

胎児には純粋に「持続」だけがあるのだろう。

 

それは胎児と新生児をつなぐ持続だ。

 

その持続上にはじめて「経験的意識」が立ち上がると同時に、胎内の記憶は「経験」に置き換えられてしまうのだと思う。

 

 

新生児の持続に何が起こったと推測出来るでしょうか。

 


「僕は誕生とともに大きな産声を放った。

すると、今度はそれを押し返され息を吸う。

再び僕はそれを押し返した。

それを繰り返した。」

 

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この呼気と吸気の繰り返し。

それをエスコートするかのように寄り添っている「何か」の存在がみえます。

 

いま新生児が一体となっているのは「膨張収縮する何か」です。

 

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新生児の霊(イデア)は膨らんだり縮んだりしている球体と隙間なく寄り添っていて他には何もありません。


これは存在論的な存在です。

霊視、つまりイデアをみることによって確認しているのだといえます。

 

この存在が新生児にとっての「対象」のはじまり

 

初めての「世界」です。

 

この「世界」にその後の経験的意識が展開されます。

 

「膨張収縮するイデア」は最初の「経験的意識」です。

 

ただし、それは「最初の」という点で、その後の経験的意識とは異なり、「本質」とつながっています。

 

「膨張収縮するイデア」とあい対しながら、そこにはまだ「本質」が「胎内での一体感覚」を通してリアルに存在しています。

 

ここではこれをヌーソロジーの「元止揚空間」と対応させて考えていきます。

そして膨張収縮は、顕在化の次元においては「点球」ということになります。

 

 

新生児は点球と寄り添いながら、まだ元止揚空間とも接点をもっています。

点球を感じている経験的意識が元止揚空間を根拠にしているからです。

 

そこには大系観察子や脈性観察子のすべてが凝縮されています。

 

もしも新生児がこの時点から、点球の内側に身を移し、そこで経験的意識を連ねていくことにならなければ、人間型ゲシュタルトが作られることはありません。

 

膨張収縮内部では経験的意識がはたらきます。

前提として必ず「経験」が必要だということ。

つまりそれら「中和」が先手ではたらいている空間です。

 

そこに閉じ込められるのではなく、いつでも出入り可能にしておけば、元止揚空間はアクセス可能なところにあります。

そして点球を点球として相対し、その先を観察する足場も失ってないのです。

 

ただしずっとそのままでは僕らのように経験的意識を楽しむことが出来ません。

人間としての喜びや楽しみを持ったまま、いままさにその位置に立ち戻ることが理想なのではないでしょうか。

苦悩の原因もきっとそこにあります。

 

それは出来ると考えています。

 

僕らはなぜ中和先手の世界に身を移したのでしょうか。

そして元止揚空間はまだどこか近くにあるのでしょうか。


『タイプを見分ける前に(後編)』に続きます。

第2話〜イデアサイコロジーレポート

《 Idea Psychology Report 》

〜第2話『エニアグラムとは』


春井星乃さんのブログでイデアサイコロジーに出会って、もっとエニアグラムを知ろうと思い、本を買って読んでみたのですが最初はどうもしっくりこなかったんです。

 

 春井星乃さんの「星乃かたちみ」↓

 http://hoshinokatachimi.blog.jp/


そこでもう一度春井さんのブログを読み直したらやっぱりよくわかる、合点がいくわけです。

 

簡単にいうとエニアグラムというのは人間の性格についてのタイプ論なのですが、この違いはいったい何なのかを比べてみたところ、世間一般のエニアグラムには「空間的な視点」が不足しているように思いました。


「空間階層的な思考」をすることがいかに大切かがわかったのでした。


皆さんにも、この「空間的」という感覚と、イデアサイコロジーはめっちゃ面白いということを知ってもらうのが今回の目的です。


では早速始めたいと思います。


さて、生まれたばかりの赤ちゃんと僕たちとでは、どこが違うのか考えてみてください。


赤ちゃんというのは「無垢」ですよね。

まさに欲求や感情を「そのものとして」生きています。


前もって構えたり加減することを知りませんから全てが体当たりですね。


それが赤ちゃんの本質であり、僕たちとは絶対的に違う点ではないかと思います。


ところで皆さんの周囲には、そのような無垢のまま大人になってるお友達がいますか?


おそらくいないでしょう。


「欲求や感情をそのものとして生きている人」を「大人」とは言いませんよね。


なぜなら大人とは、この「欲求や感情をそのものとして生きないようにしてる人」のことをいうからです。


つまり、「無垢なまま」で現実に直面することがないような何らかの配慮があるわけです。


今回は、この「配慮すること」に焦点を当てていきます。


だいたい赤ちゃんみたいに無垢な大人がいたら大変ですよ。笑


挨拶するたびにキャッキャ笑い、注意するたびにワンワン泣くわけですから。

職場にそんな人がいたら面白いですけどね。笑


話がそれてしまいました。笑


さて、その「配慮」ですが、


それは既にこの赤ちゃんの頃に始まっています。


ここからは実際にその立場を想像してみてください。


生まれたばかりの新しい世界で、欲求や感情をそのものとして生きている赤ちゃん。


でもその欲求は、すぐに受け入れてもらえないこともあるし、しつけのために否定されることも当然あるわけです。


どこの家庭でもそうであり、親にとっても、そうする事が当たり前ですよね。

しかし、そのときの赤ちゃんの心の中で実際に何が起きているのかは、「一般的に」ではなく「本人目線」で考えてみないとわかりません。

やってみましょう。

 

赤ちゃんの世界は、それまですべてが許されていて、一点の疑いも存在しません。


欲求と感情の躍動。

それがすべてであり、

世界は希望そのものです。


そしてそれは突如として起こります。

 

 

それが何であるかさえ全くわかりません。


「なんじゃこりゃ〜!!」って感じだと思います。

「ビックバン」ならぬ「ビックリ!バーン!」です。笑


気が付いたらいきなり大人側の世界に放り込まれていて、目の前は既に「別世界」です。


この「断絶」を境に無垢な方の赤ちゃんは死んだのです。


これは決して比喩で言ってるのではなく、この体験がその後において「死というものに当てはめる観念」の原型として働くように思います。


ここで言ってるのは、理想的な「本来の死」のことではなく、僕たちが恐れている方の「死」ですね。


赤ちゃんは、自分に起きたこの「断絶」の記憶を、その後「死」として恐れるようになるということです。


これがエニアグラムでいう「根源的恐れ」の始まりではないかと考えてます。


そして「死」が世界のどこかに存在するようになってからは、無垢のままでいることに「恐怖」を生じます。

断絶した記憶に対する恐れから衝動的に「無垢ではない状況」を「欲求」するようになるわけです。


※ちなみに仏教ではこの断絶を「随眠(ずいみん)」と呼び、この断絶の記憶にたいする「恐れ」によって僕たちが衝動的に立ち上げるものを「煩悩」だとしています。


この時期(0〜1歳半)をフロイトの言葉で「口唇期」といいます。

僕たちはその後、「肛門期(1歳半〜3歳)」「男根期(4歳〜6歳)」においても、常にこの「恐れ」に動かされています。

そしてそこから逃れたいという欲求から、わらをも掴むようにしているうちに、それぞれ「独自の行動パターン」が身についてしまうのです。

これが「配慮」の始まりです。

僕たちは、そこで「行動パターン」を使うと「無垢」から変身できます。

そのことを「恐れから逃れることができた」と錯覚し、その行動パターンに取り憑かれ、永遠に囚われることになります。


常に「囚われのパターン」で行動し続けていくことで、いつしかそこに、リアリティーを持った「別の世界」が作られてしまいます。

そこを抜け出せないでいるということです。


しかしこの「囚われのパターン」に「気付いていく」ことで、作り上げてしまった「別の世界」を解放していくことが出来るんです。


もうお分かりだと思うのですが、これがイデアサイコロジーにおけるエニアグラムの役割です。


エニアグラムでは、この「囚われのパターン」には人によって「9つのタイプ」があるとされます。


エニアグラムの扱う「性格」とはそのようなものなんです。


具体例をあげると、僕のタイプ「タイプ5」は、空気が読めてない状況に「根源的恐れ」を予感します。


「空気読まなくちゃ!!」という強い衝動から、「調べる」ということを行動パターンに選ぶタイプです。


「調べる」といっても、「検索する」というようなニュアンスではなく、まず「考えるための間合いを確保する」という感じです。

よく「まだ考え中です!」といって即答をパスしますよね。

パスすることで「恐れ」は一時的になくなりますよね。

これを錯覚するわけです。

つまり「調べる」(思考に逃げ込む)ことで恐れはなくなる」と錯覚して今度はそれに取り憑かれてしまうんです。

正しい情報が出ようと出まいと「調べること」自体が目的になってしまっているということですね。

 

それによって自分の人生がダメになろうともとにかく調べ続けるんです。

それほどに「囚われ」ているわけです。


また、先ほども言ったように「考える間合い」を確保しなければいけませんから、現実から距離を取るようになったり、「傍観者」となって周囲から「孤立」していきます。

 

孤立してるおかげでそこにまた考える時間が山ほどありますからさらに孤立してしまいます。


この例のように各タイプはそれぞれ「別世界」をエスカレートさせてきているのです。


そしてそこにいる自分を本当の自分だと思っているわけです。

 

それが「自我」ですね。

そしてそこは「Ψ6」です。

    💡

説明します。

 

ヌーソロジーでは、オギャーと生まれた赤ちゃんが成長していくところを、「Ψ10」がΨ1〜Ψ8を順次なぞっていく様子として対応させています。


つまり「Ψ3〜4」をなぞるあたりが 口唇期、「Ψ5〜6」が 肛門期、Ψ「7〜8」が 男根期です。


人間はこの3つの時期のいずれかで身につけた「囚われ」によって行動してますから、その行動パターンではその先には進めません。

 

そこから抜け出せずに行ったり来たり、反復しているわけです。

 

本人の目線では常に前の視界しか見えていないから、自分が閉じ込められてるとはわかりません。

 

しかしはたから見ると、つまり「見られている空間」ではその様子が浮き彫りにされますよね。

 

人間から見ると「Ψ6」という次元にそれが映されて見えるわけです。

 

そしてその「自分の見え姿」に還るべき自分を見つけてその中身でいようとしてるわけです。

これが「自我」の成り立ちです。


先程の「Ψ10がなぞる」というのがわかりにくかったと思うので、これも説明します。

次のような状況をイメージしてみてください。


仮に赤ちゃんがエデンの園に生まれていたらこの「別世界」に放り込まれることはなかったかもしれませんね。

 

その楽園では、赤ちゃんの「健全な精神(ヌース)」は成長とともに次元観察子を滞ることなく周回し、さらに大系観察子、脈性観察子の世界へと進み、龍のように悠々とすべての観察子構造をつねに巡回、回帰していることでしょう。


たとえ宇宙の果てだろうが、2万6千年であっても10万4千年であってもひとっ飛びなわけですね。


しかし、人間の世界では、先ほどからお話ししてるように、精神がΨ3〜4、Ψ5〜6、Ψ7〜8のいずれかで囚われて、そこで停滞してしまってます。

 

もしもそこで停滞することなく順調に「なぞって」いくことが出来たらそれが健全な成長だといえるわけです。

「なぞる」はそういう使い方で用いられてます。

 

このようにヌーソロジーイデアサイコロジーを絡めて思考すると双方の解釈にものすごく役立つのです。


これを読んで、皆さんの中にはこの「次元観察子」の風景が、半田広宣さんが説明するものとはなんとなくイメージが違うと感じられた方がおられると思います。

最後にこのことについてお話しします。


ヌーソロジーは目の前の空間に対して「顕在化」の視点からアプローチしていきます。

つまり「変換人型ゲシュタルトで見える世界」を語っていくわけです。


それに対してイデアサイコロジーは「潜在化」の視点からアプローチしていきます。

「人間型ゲシュタルトで見える世界」を語っていくわけですね。

それは僕たちの「現実」を語っているということになります。

 

この違いだと思ってください。


ここで言いたかったのは、これが「僕たちの現実」と「ヌーソロジーの世界」との唯一の接点だということです。


前回の投稿で、「イデアサイコロジーは、観察子の世界と現実とのギャップを埋めてくれるもの」とお話ししました。

 

 前回の記事↓

 https://nobiyan.hatenablog.com/entry/2019/11/16/152702

 

それは、次のような経過をたどるのではないかと考えてます。


僕たちは、潜在化して掴みどころのない「自我」というものにいつまでも閉じ込められているのではなく、


例えば今回のように人生の切り口にフォーカスし、それを空間的にとらえることによって、自我をアプローチ可能なものとする。


そして、自我には短所ばかりではなく、逆に「囚われ」によっていつのまにか築き上げている「長所」もあることを知る。


その長所を使って自我を社会の中で活かす方向に持っていくことが、ヌーソロジーでは「等化」ということになり、

 

それによって次第に自我が解放されることで、自ずとそこにヌーソロジーの「顕在化の視界」が開けてくることになる。

 

きっとこういうシナリオだと思います。

 

長くなりました。最後までお付き合いいただきありがとうございました。😊

 

顕在化をめざす僕たちにとって、イデアサイコロジーがとても役に立つということがお分かりになったと思います。

 

みんなの力で作っていくことで、より早く、良いものになっていくのではないかと思います。

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第1話〜イデアサイコロジーレポート

《 Idea Psychology Report 》
〜第1話『心理学をやろうよ』

 

正直言って僕には心理学の知識は全くありません。

 

しかしヌーソロジーをやってきて観察子の世界と現実のギャップを考えるようになった頃、ちょうど春井星乃さんが提唱されているイデアサイコロジーを知り、これはヌーソロジーを現実と結びつけて意識の成長を飛躍的にするものだという確信がありました。

 

ヌーソロジーの視点から説明される春井さんの心理学は、観察子構造(存在の階層性)が私たちの空間に生じてくるいきさつについて語られています。

「存在の階層性」については「ミミズと絵画」の投稿をご覧ください↓

https://nobiyan.hatenablog.com/entry/2019/11/09/181051

 

つまり僕が求めていた「観察子の世界と現実のギャップについての研究」なのです。

 

どういうものなのかを簡単に説明します。

イデアサイコロジー」の「サイコロジー」は「心理学」という意味です。
では「イデア」とは何でしょうか?

実はそれが、これから私たちが「イデアサイコロジー」を通して見ていくことになるものなのです。

 

春井さんは今年の6月に福岡ヌーソロジー研究会という定例勉強会で初めて「イデアサイコロジーの基本構造について」という表題で講演をされました。
その中でヌーソロジーとの比較がされており、その研究対象について次のように書かれています。

 

イデアサイコロジー:主に心理学・精神分析・精神医学を通して、イデアが人間の意識発達や性格等にどのように表れるのかということを明らかにする。」

 

要約すると「イデアとはどのように表れるものなのかを明らかにする」ということですね。

 

そしてヌーソロジーの方は、
「ヌーソロジー:主に物理学・哲学を通して、イデア(観察子構造)から作られる空間構造を明らかにする。」
とあります。

 

なんと、みなさんご待望の「ヌーソロジーで明らかにしようとしている空間構造」は、イデアサイコロジーで明らかにされる「イデア」から作られているということなのですよ。

 

この待ちに待たれたというか、ドンピシャでやってきた解答に僕は飛びついて、まずイデアサイコロジーで説かれているところの「人間の性格を形成する4つの要素」のひとつである「エニアグラム」の書籍を購入して、「とりあえず」は春井さんのおっしゃていることは間違いないと自分で納得出来るところまでは勉強できました。

 

だから今現在僕が知ってるのはエニアグラムの導入部だけですし、エニアグラムと現代の心理学との関係について語るすべも持ちません。
ロックアーティストをめざして挫折してた人間ですから。笑

 

ですからシロウトが心理学を語るにあたって躊躇があったのです。

 

しかし皆さんも次のように考えて下さい。

たとえ私たちに心理学の知識がなくても、心理学というのは心についての学びであるわけです。

例えば心理学者といわれる方がこの場にいたとしても、それはあくまでも「一般的な」「心」というものを、学会で認められている症例などと比較するという学術的なアプローチが出来るというだけのことであって、「変換人になるにはこの心をどうしたらよいか?」(笑、、いや、笑えない)という私たちの純な問いかけに応えれくれるものではないわけです。

 

そのような心理学者よりは、奥行きというものに先見のある私や皆さんの方がよっぽど「これからの心理学」に密接に向き合おうとしているわけですから、躊躇なく自分の心、つまり心理学を語っていくべきだと思うのです。

 

残念ながらイデアサイコロジーは現在、春井さんのブログにしか語られていません。
それを読んで各々が自習するしかないのですが、そこから大きな気づきを得た人がそれらをシェアし合うことはヌーソロジーの場合がそうであるようにイデアサイコロジーの潮流をつくることになると思うのです。

 

たとえ間違ったことを発信してもそれは潮流とならないだけです。
多くの人が府に落ちるシェアだけが集まって潮流をつくっていくわけですから。

 

そういう訳でその潮流の一端になればと思い、これまでに僕の得た気づきをレポートという形で何回かに分けてシェアさせていただこうと思ったわけです。

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写真の資料は春井星乃さんがブログで公開されてます。↓

http://hoshinokatachimi.blog.jp/archives/17808784.html

ミミズと絵画

ミミズには目が無いから、絵画アートの鑑賞は出来ません。
しかし、初めから無いのだからそれを苦とは感じません。

また、絵画という楽しみが他の誰かにはあるとも考えないから、やはり目や絵画が無いという苦しみもありません。

つまりこれは「目が無いという事実自体が無い」ということなのですから、ミミズにとってそれらは「有るのでもなく、無いのでもない」といういい方になるでしょう。

絵画の存在は、その全てが視野の世界に包まれていて、視野の世界が無くなれば絵画の存在も同時に残らずなくなるという構図になっているわけです。

このような「存在の因果関係」のことを「此縁性(しえんしょう)」といいます。

これは実は釈尊が発見した、娑婆世界を解脱し、涅槃に至るために用いる法則なのです。

もう少し理解を進めるために、娑婆世界の法則と比較してみましょう。

娑婆世界を支配する「相依性(そうえしょう)」という法則によると「絵画がそこに存在する原因」は例えば「絵描き」です。

しかし、「絵描き」だけが原因ではなく、
「絵の具やキャンバスの製作者」
「絵の具やキャンバスの物質としての性質」
「そこに絵画を運んで来た運転手さん」
「筆を動かす手の筋肉の力」
「絵を描いて欲しいという注文」
…などなど数え上げたらキリがないのです。

つまり相依性(そうえしょう)を法則としている娑婆世界では、「原因を特定出来ない」という問題があり、存在の関係性があやふやになっていることがわかります。
そのあやふやな所に様々な妄想が生じます。

それに対して、此縁性(しえんしょう)でみている世界は物事の因果関係が明確になっているので問題がすぐに解決できます。

仏教は目的は、世界を常に此縁性(しえんしょう)で見ることによって妄想を無くしていくことです。

 

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釈尊はこのような論理の場で、きっと弟子たちとともに語り、修行を楽しんだはずなのです。

おしまい。

素粒子とエニアグラム

素粒子は人間の無意識構造である」という考え方はヌーソロジーが一貫して掲げているメインテーマのひとつですね。

「奥行き」という感覚と、かたや量子物理学を、「虚軸」や「持続」といった数学や哲学などの概念を用いて、正攻法で結びつけようとする動きは、同じようなテーマを掲げる数ある思想の中で類を見ないものだと言えます。

 

しかし、そもそも「無意識」というものは「意識に上がらない」という点でつまり捉えようがないわけですから、様々な説が挙げられるかたわらで、それらを認識化したり実証していくためには「常に無意識との関連を持っており且つ、認識化可能な題材」によっても考察されている必要があります。

 

要するに、素粒子が無意識構造であるということが考察されていくには、同時に、まさにそこで素粒子と結びつけしようとしている「それ」が「無意識(というもの)」であるという事実が了解されている必要もあるわけです。

 

僕がこの最近、「性格」というものを特に取り上げているのは、心理学的な偏見を取り除くのに合理的で最も適しているということはもちろん、もう一つは「性格」というものが、先述した「題材」となりうるという考えからです。

エニアグラムのメソッドによって空間における性格というものの「働き方」やその「潜在性」を実際に確認することができます。

それは、様々な性格というものはバラバラにあるように見えて、実は空間構造的に階層序列化されているからです。

このように「性格」に持たせる概念をあらためて確立させていくことが、今後無意識を取り扱うための最初の作業だと思うからです。

その上でそれらを素粒子(のもつ数理性)と関連させて観察し、語るべきではないかということです。

 

例えば具体的に次のような方法はどうでしょうか。

 

エニアグラムの分類における僕の性格はタイプ5ということになります。

簡単に言うと、乳幼児期の体験からの衝動によって、常に「孤立」という状況に身を置いています。

それはエニアグラムを知るまで全く気付く由もなく、自分の現状をそれまでは「孤立」とは見ていなかったわけですから、まさに無意識に潜在化していたものです。

エニアグラムでは、このような状況下で人間は「分裂」と「統合」の二つの動きに分かれると言います。

タイプ5にとっては「分裂」の方向となるのがタイプ7、「統合」の方向となるのがタイプ8ということになります。

僕個人の経験から言うと、タイプ5が分裂の方向タイプ7に動くとき、「孤立」によって得た「深い知見」や「多趣味」などとは楽観的に接しています。

つまり、それらを並べて自己満足しているような感じです。

実はそれはタイプ5にとっては堕落の方向にあり、「孤立」を更に深めてしまうこととなります。

 

逆にタイプ5にとって統合であるタイプ8への動きは「行動」であり、環境への恐れを克服して信頼することを学び、自分の培ってきた知見や趣味を周囲に提供することになります。

 

さて、タイプ5についてざっとお話ししたわけですが、ここからが本論となるわけです。

 

ここで言いたいのは、「統合」の場においては、いわゆる「見られている意識」より、「見ている意識」が働いているのではないかということです。

 

つまりそこでは視線が「Ψ5」として働いており、その場面は「アップクォーク」が観察される状況としてみるわけです。

さらに言うと、その奥行き感覚による行動力が周囲と共鳴するとき、そこに生じているものは「陽子」として観察されるべきものなのではないかという具合です。

 

そして一方「分裂」の方向では「見られている意識」が働いていることになり、素粒子としてその場面に観察されているものは「ダウンクオーク 」、まさに視線である「実軸」は3次元性を強化し、そういった人の集りは「中性子」が観察される場面だということです。

 

逆もまた言えるわけです。

つまり、そこに例えばSU(2)と呼ばれる回転や「陽子」を故意的に実現しようとすれば、エニアグラムによって分類された性格を各自統合の方向に動いている人たちが集い、共通のテーマに沿って交流すればよいのではないかということです。

 

この考えでいくと、もしかしたらヌーソロジーのレクチャーや研究会の会場では、なんらかの形で陽子が観察されていたかも知れないわけです。笑

心当たりありますか?笑

 

エニアグラムでは、このような「統合」「分裂」の他にも「健全」「不健全」などの考え方があるようで、僕としてはまだまだ勉強の余地があるわけですが、性格という概念の位置付けだけを取り上げて見ても、エニアグラムはこのように、無意識や量子物理学に接続可能なものなのではないかと考えています。

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イデアサイコロジーにみる方法論

 


エニアグラムを学ぼうとするとき、「性格」というものを正しく解釈することに成功すれば、春井星乃さんが提唱するイデアサイコロジーによってさらにその先に進むことができると考えてます。

エニアグラム占星術によって自我の向こう側を知り、目指すところは「死の顕在化」ということになります。

ヌーソロジーではΨ13による観察意識を持つということです。

Ψ13は「定質と性質の等化」ともいいます。

少し難しそうですが、この辺りから入ってみたいと思います。

 

定質と性質の話になってくると、実は「名称」について考える必要があります。

このあたりは軽く読み飛ばしてください。

ここで「名称」と呼んでいるのは「名称」という名称をあたえられているもののことです。

今日は詳しくお話しできませんが、個人的には、オコツトが「付帯質」と呼んでいるものと深く関係していると考えてます。

皆さんも時間のあるときにゆっくりと思いを巡らせてみてください。

 

今日のところは「性格」を解釈するために、仮に「怒り」というものを取り上げてみます。

 

この「怒り」と呼ばれているものも、他のあらゆる「名称によってあらわされているもの」と同様に、観察の次元によって見え方が全く異なってきます。

一体何を言いたいのかというと、こういうことです。

 

言語空間でもある次元観察子「Ψ9」では、「怒り」とは、「感情のひとつである」と観察されます。

「概念的」といえます。

 

そして知覚空間である「Ψ10」では、「そのもの的」に怒りそのものが観察されます。

そのもの的に怒りそのものが観察される、とはどういうことかというと、例えばここで僕が皆さんの頬をピシャッと叩いたと想像してください。すると皆さんの中にあるものが立ち上がってくると思います。

皆さんが変な趣味の方でなければ(笑)、それは「怒り」が「そのもの的」に観察されているわけです。

 

このように「怒り」や、その他の様々なものも、「Ψ9」「Ψ10」という観察次元によって、どういう違いで観察されるのかをしっかりと自分のものにしてみてください。

 

次に「Ψ12」ではどう観察されるのでしょうか。

「Ψ12」では、「人間が怒りを感じている様子」を他者の視線で「そのもの的」に観察しています。

ですから観察する内容は「反応の強さ」や「感情の高まり」ということになります。

「他者が怒りと接している様子を、(その人の性格として)自己がそのもの的に肌で感じている」という感じです。

それを自分に当てはめたりもします。

 

次に「Ψ11」ではどう観察されるのでしょうか。

「Ψ11」では、「Ψ12」と同じく「他者の性格」として「怒り」が観察されるのですが、それは「あの人は(または、人間というものは)、こういう事が起きると、こういう怒り方をする」というように「意識のあり方として」「概念的」に観察されます。

「Ψ12」と同じくそれを自分に当てはめます。

 

その観察はある意味で、「Ψ9」の観察結果と「Ψ10」の観察結果をごちゃまぜにせずに引き継ぐことに成功しています。

 

それに比べてΨ12の場合、「反応」は強さとして、「感情」は高まりとして、常に「幅的」に観察されています。

その幅的な観察結果は、自我が自分の意識を成り立たせるための要素として常に必要としているものです。

(ちょっと古いですが)「どんだけぇー!」という比較結果だけが認識の基準であり、自我はそこに価値を認めているわけです。

 

偶数系の次元観察子というのは、自我が、観察結果を「自分の肥やし」として成長させている様子でもあります。

「自我」というのは、「わたし」が「人間の意識」を持つための3次元世界用の存在形態みたいなものなので、常に「幅」的な思考の中に生じ、それに反応し、その刺激の獲得を目指します。

 

それは次のΨ14でも同じことが言えます。

「Ψ14」では「Ψ11」と「Ψ12」の観察結果を、自我が肥やしとする目的で「中和」しているため、「こうこうの性格の人にはこういう対応をしましょう」とか「こうこうの性格の人はこういう仕事に向いてません」という観察をします。

これは自我にとってはとても役立つ観察結果です。

いわゆる世間一般の性格診断や占星術などはこのレベルを超えることが出来ていないのではないかと考えているわけです。

そして、このことは「自我を中心に置いている」という点ではあたかも「個」が尊重されているように見えるのですが、実は「本当の個」はそこにおいて殺されているのです。

それはΨ13でみると明らかになりますが、Ψ14は「死の潜在化」です。

「死んでいること」も「何が死んでいるのか」も潜在化しています。

 


冒頭でお話ししたように、「性格」というもののそのもの性「Ψ12」を「Ψ14」に回収されるものとしてではなく、「Ψ13」に導かれるものと意識してしっかり観察しておかないと、それは自我の肥やしとなる運命をたどります。

 

そして、「Ψ14」で観察される「Ψ12」と、「Ψ13」で観察される「Ψ12」は、どちらも同じ「性格」ですが、「Ψ13」において「Ψ11(定質)」との等化を目的とした「性格」であれば、「Ψ14」における中和の「Ψ12」との間に「自我」が差異化されてくることとなり、それがその後の最も重要な道しるべとなります。

それが「性格」と「自我」の不思議な関係です。

「性格」を明らかにすることで、実は「自我」に輪郭を与えることに成功しているのです。

人間は常に、自我によって作られた世界の中で、「見られる」という位置付けに苦しめられているのですが、ここにおいて初めて「自我を観察できる位置」に立つことが出来るわけです。

「自我」というのは本来、「滅するべきもの」なのではなく、「ヒト」となるために「人間によって観察されるべき最後のもの」なのです。

なぜかといえば、もうお分かりのように「わたし」にとっては「自我」にしか、その先「あなた」が示されている手がかりはないのです。

それが、性格というものを「自我のそのもの性」としてみることが顕在化のために最も有効な方法だと考える理由です。

そして「性格」を、『Ψ13において「定質」との等化をされるもの』、つまり『性質』として目を凝らすとき、「性格」は「一義的」なものとなります。

それは『わたしが生まれてから死ぬまでに接するものは、例外なくすべて「性格」である』という観点を持つことになります。

それが、ヌーソロジーが言うところの「素粒子が人間の無意識構造である」という考えを容易にし、イデアサイコロジーは量子学的にここでヌーソロジーと接続されていきます。

 

つまり「性格」は「素粒子のそのもの性」ということにもなるわけです。

素粒子が構成している「万象」は全て「性格」を持つものですよね。

「喜び」や「悲しみ」など自分の感情の対象となる物質はもちろん、電柱やガードレールも「性格を無くしてあるという性格」というわけです。

そして「Ψ13」で等化される「定質と性質」とは、顕在化の道を歩もうとしている自我の目には「万象と性格」として映っているものだといえます。

実際に目に付くものすべてを「性格」として見てみてください。

そしてその性格を見せているのは「万象(現象)」ということになります。

僕の場合、人の動きも車の動きも、「すべて天体の運動と同じなのだ」として視てみると、割と「万象」のイメージを掴むことができます。

つまりその「万象」に「性格」を感じ取っているのが、その時点での「自我」という感じです。

つまり「性格は自我」「自我は性格」という感覚のレベルです。

そうやって次第に自我をコントロール出来るようになるのではないでしょうか。

 

「性質」はヌーソロジーの定義では「進化とは逆向きの力」となっています。

それが「逆向き」であると定義されているなら、「逆に利用する」ことで逆に「進化とは何か」がわかるということです。

春井さんはおそらくその成り立ちに目をつけて「ヌーソロジーは顕在化から、そしてイデアサイコロジーは潜在化から(同じところを目指している)」とおっしゃっているのではないかと思うわけです。

 


イデアサイコロジーは、「性格」をこのように定義し、「性格診断」や「占星術」を使いますが、それらは世間一般に見られるところの「Ψ14に回収される類いのもの」ではないというのが僕の解釈です。

 


まだ上手く整理できてないので、次々と書きまくってしまい乱文となりました。

自分でもよく読み返して、きちんと整理していきたいと思います。

ありがとうございました。^ ^

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