のびやんの奥ゆ記

ヌーソロジー片手に奥行きを歩きましょう♪

素粒子とエニアグラム

素粒子は人間の無意識構造である」という考え方はヌーソロジーが一貫して掲げているメインテーマのひとつですね。

「奥行き」という感覚と、かたや量子物理学を、「虚軸」や「持続」といった数学や哲学などの概念を用いて、正攻法で結びつけようとする動きは、同じようなテーマを掲げる数ある思想の中で類を見ないものだと言えます。

 

しかし、そもそも「無意識」というものは「意識に上がらない」という点でつまり捉えようがないわけですから、様々な説が挙げられるかたわらで、それらを認識化したり実証していくためには「常に無意識との関連を持っており且つ、認識化可能な題材」によっても考察されている必要があります。

 

要するに、素粒子が無意識構造であるということが考察されていくには、同時に、まさにそこで素粒子と結びつけしようとしている「それ」が「無意識(というもの)」であるという事実が了解されている必要もあるわけです。

 

僕がこの最近、「性格」というものを特に取り上げているのは、心理学的な偏見を取り除くのに合理的で最も適しているということはもちろん、もう一つは「性格」というものが、先述した「題材」となりうるという考えからです。

エニアグラムのメソッドによって空間における性格というものの「働き方」やその「潜在性」を実際に確認することができます。

それは、様々な性格というものはバラバラにあるように見えて、実は空間構造的に階層序列化されているからです。

このように「性格」に持たせる概念をあらためて確立させていくことが、今後無意識を取り扱うための最初の作業だと思うからです。

その上でそれらを素粒子(のもつ数理性)と関連させて観察し、語るべきではないかということです。

 

例えば具体的に次のような方法はどうでしょうか。

 

エニアグラムの分類における僕の性格はタイプ5ということになります。

簡単に言うと、乳幼児期の体験からの衝動によって、常に「孤立」という状況に身を置いています。

それはエニアグラムを知るまで全く気付く由もなく、自分の現状をそれまでは「孤立」とは見ていなかったわけですから、まさに無意識に潜在化していたものです。

エニアグラムでは、このような状況下で人間は「分裂」と「統合」の二つの動きに分かれると言います。

タイプ5にとっては「分裂」の方向となるのがタイプ7、「統合」の方向となるのがタイプ8ということになります。

僕個人の経験から言うと、タイプ5が分裂の方向タイプ7に動くとき、「孤立」によって得た「深い知見」や「多趣味」などとは楽観的に接しています。

つまり、それらを並べて自己満足しているような感じです。

実はそれはタイプ5にとっては堕落の方向にあり、「孤立」を更に深めてしまうこととなります。

 

逆にタイプ5にとって統合であるタイプ8への動きは「行動」であり、環境への恐れを克服して信頼することを学び、自分の培ってきた知見や趣味を周囲に提供することになります。

 

さて、タイプ5についてざっとお話ししたわけですが、ここからが本論となるわけです。

 

ここで言いたいのは、「統合」の場においては、いわゆる「見られている意識」より、「見ている意識」が働いているのではないかということです。

 

つまりそこでは視線が「Ψ5」として働いており、その場面は「アップクォーク」が観察される状況としてみるわけです。

さらに言うと、その奥行き感覚による行動力が周囲と共鳴するとき、そこに生じているものは「陽子」として観察されるべきものなのではないかという具合です。

 

そして一方「分裂」の方向では「見られている意識」が働いていることになり、素粒子としてその場面に観察されているものは「ダウンクオーク 」、まさに視線である「実軸」は3次元性を強化し、そういった人の集りは「中性子」が観察される場面だということです。

 

逆もまた言えるわけです。

つまり、そこに例えばSU(2)と呼ばれる回転や「陽子」を故意的に実現しようとすれば、エニアグラムによって分類された性格を各自統合の方向に動いている人たちが集い、共通のテーマに沿って交流すればよいのではないかということです。

 

この考えでいくと、もしかしたらヌーソロジーのレクチャーや研究会の会場では、なんらかの形で陽子が観察されていたかも知れないわけです。笑

心当たりありますか?笑

 

エニアグラムでは、このような「統合」「分裂」の他にも「健全」「不健全」などの考え方があるようで、僕としてはまだまだ勉強の余地があるわけですが、性格という概念の位置付けだけを取り上げて見ても、エニアグラムはこのように、無意識や量子物理学に接続可能なものなのではないかと考えています。

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イデアサイコロジーにみる方法論

 


エニアグラムを学ぼうとするとき、「性格」というものを正しく解釈することに成功すれば、春井星乃さんが提唱するイデアサイコロジーによってさらにその先に進むことができると考えてます。

エニアグラム占星術によって自我の向こう側を知り、目指すところは「死の顕在化」ということになります。

ヌーソロジーではΨ13による観察意識を持つということです。

Ψ13は「定質と性質の等化」ともいいます。

少し難しそうですが、この辺りから入ってみたいと思います。

 

定質と性質の話になってくると、実は「名称」について考える必要があります。

このあたりは軽く読み飛ばしてください。

ここで「名称」と呼んでいるのは「名称」という名称をあたえられているもののことです。

今日は詳しくお話しできませんが、個人的には、オコツトが「付帯質」と呼んでいるものと深く関係していると考えてます。

皆さんも時間のあるときにゆっくりと思いを巡らせてみてください。

 

今日のところは「性格」を解釈するために、仮に「怒り」というものを取り上げてみます。

 

この「怒り」と呼ばれているものも、他のあらゆる「名称によってあらわされているもの」と同様に、観察の次元によって見え方が全く異なってきます。

一体何を言いたいのかというと、こういうことです。

 

言語空間でもある次元観察子「Ψ9」では、「怒り」とは、「感情のひとつである」と観察されます。

「概念的」といえます。

 

そして知覚空間である「Ψ10」では、「そのもの的」に怒りそのものが観察されます。

そのもの的に怒りそのものが観察される、とはどういうことかというと、例えばここで僕が皆さんの頬をピシャッと叩いたと想像してください。すると皆さんの中にあるものが立ち上がってくると思います。

皆さんが変な趣味の方でなければ(笑)、それは「怒り」が「そのもの的」に観察されているわけです。

 

このように「怒り」や、その他の様々なものも、「Ψ9」「Ψ10」という観察次元によって、どういう違いで観察されるのかをしっかりと自分のものにしてみてください。

 

次に「Ψ12」ではどう観察されるのでしょうか。

「Ψ12」では、「人間が怒りを感じている様子」を他者の視線で「そのもの的」に観察しています。

ですから観察する内容は「反応の強さ」や「感情の高まり」ということになります。

「他者が怒りと接している様子を、(その人の性格として)自己がそのもの的に肌で感じている」という感じです。

それを自分に当てはめたりもします。

 

次に「Ψ11」ではどう観察されるのでしょうか。

「Ψ11」では、「Ψ12」と同じく「他者の性格」として「怒り」が観察されるのですが、それは「あの人は(または、人間というものは)、こういう事が起きると、こういう怒り方をする」というように「意識のあり方として」「概念的」に観察されます。

「Ψ12」と同じくそれを自分に当てはめます。

 

その観察はある意味で、「Ψ9」の観察結果と「Ψ10」の観察結果をごちゃまぜにせずに引き継ぐことに成功しています。

 

それに比べてΨ12の場合、「反応」は強さとして、「感情」は高まりとして、常に「幅的」に観察されています。

その幅的な観察結果は、自我が自分の意識を成り立たせるための要素として常に必要としているものです。

(ちょっと古いですが)「どんだけぇー!」という比較結果だけが認識の基準であり、自我はそこに価値を認めているわけです。

 

偶数系の次元観察子というのは、自我が、観察結果を「自分の肥やし」として成長させている様子でもあります。

「自我」というのは、「わたし」が「人間の意識」を持つための3次元世界用の存在形態みたいなものなので、常に「幅」的な思考の中に生じ、それに反応し、その刺激の獲得を目指します。

 

それは次のΨ14でも同じことが言えます。

「Ψ14」では「Ψ11」と「Ψ12」の観察結果を、自我が肥やしとする目的で「中和」しているため、「こうこうの性格の人にはこういう対応をしましょう」とか「こうこうの性格の人はこういう仕事に向いてません」という観察をします。

これは自我にとってはとても役立つ観察結果です。

いわゆる世間一般の性格診断や占星術などはこのレベルを超えることが出来ていないのではないかと考えているわけです。

そして、このことは「自我を中心に置いている」という点ではあたかも「個」が尊重されているように見えるのですが、実は「本当の個」はそこにおいて殺されているのです。

それはΨ13でみると明らかになりますが、Ψ14は「死の潜在化」です。

「死んでいること」も「何が死んでいるのか」も潜在化しています。

 


冒頭でお話ししたように、「性格」というもののそのもの性「Ψ12」を「Ψ14」に回収されるものとしてではなく、「Ψ13」に導かれるものと意識してしっかり観察しておかないと、それは自我の肥やしとなる運命をたどります。

 

そして、「Ψ14」で観察される「Ψ12」と、「Ψ13」で観察される「Ψ12」は、どちらも同じ「性格」ですが、「Ψ13」において「Ψ11(定質)」との等化を目的とした「性格」であれば、「Ψ14」における中和の「Ψ12」との間に「自我」が差異化されてくることとなり、それがその後の最も重要な道しるべとなります。

それが「性格」と「自我」の不思議な関係です。

「性格」を明らかにすることで、実は「自我」に輪郭を与えることに成功しているのです。

人間は常に、自我によって作られた世界の中で、「見られる」という位置付けに苦しめられているのですが、ここにおいて初めて「自我を観察できる位置」に立つことが出来るわけです。

「自我」というのは本来、「滅するべきもの」なのではなく、「ヒト」となるために「人間によって観察されるべき最後のもの」なのです。

なぜかといえば、もうお分かりのように「わたし」にとっては「自我」にしか、その先「あなた」が示されている手がかりはないのです。

それが、性格というものを「自我のそのもの性」としてみることが顕在化のために最も有効な方法だと考える理由です。

そして「性格」を、『Ψ13において「定質」との等化をされるもの』、つまり『性質』として目を凝らすとき、「性格」は「一義的」なものとなります。

それは『わたしが生まれてから死ぬまでに接するものは、例外なくすべて「性格」である』という観点を持つことになります。

それが、ヌーソロジーが言うところの「素粒子が人間の無意識構造である」という考えを容易にし、イデアサイコロジーは量子学的にここでヌーソロジーと接続されていきます。

 

つまり「性格」は「素粒子のそのもの性」ということにもなるわけです。

素粒子が構成している「万象」は全て「性格」を持つものですよね。

「喜び」や「悲しみ」など自分の感情の対象となる物質はもちろん、電柱やガードレールも「性格を無くしてあるという性格」というわけです。

そして「Ψ13」で等化される「定質と性質」とは、顕在化の道を歩もうとしている自我の目には「万象と性格」として映っているものだといえます。

実際に目に付くものすべてを「性格」として見てみてください。

そしてその性格を見せているのは「万象(現象)」ということになります。

僕の場合、人の動きも車の動きも、「すべて天体の運動と同じなのだ」として視てみると、割と「万象」のイメージを掴むことができます。

つまりその「万象」に「性格」を感じ取っているのが、その時点での「自我」という感じです。

つまり「性格は自我」「自我は性格」という感覚のレベルです。

そうやって次第に自我をコントロール出来るようになるのではないでしょうか。

 

「性質」はヌーソロジーの定義では「進化とは逆向きの力」となっています。

それが「逆向き」であると定義されているなら、「逆に利用する」ことで逆に「進化とは何か」がわかるということです。

春井さんはおそらくその成り立ちに目をつけて「ヌーソロジーは顕在化から、そしてイデアサイコロジーは潜在化から(同じところを目指している)」とおっしゃっているのではないかと思うわけです。

 


イデアサイコロジーは、「性格」をこのように定義し、「性格診断」や「占星術」を使いますが、それらは世間一般に見られるところの「Ψ14に回収される類いのもの」ではないというのが僕の解釈です。

 


まだ上手く整理できてないので、次々と書きまくってしまい乱文となりました。

自分でもよく読み返して、きちんと整理していきたいと思います。

ありがとうございました。^ ^

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エニアグラムタイプを知るということ

今日はエニアグラムのタイプを知るというのがどういうことなのか、僕の場合を例にして簡単にお話ししてみます。

 

僕が自分のエニアグラムタイプを判定するのに参考になった情報は次のようなものです。

 

⑴好きなこと・嬉しいこと・ワクワクすること

⑵嫌いなこと・怖いこと

⑶長所・短所

⑷趣味

 

僕の場合は自分のタイプを知ることの目的がはっきりしています。

「社会に対応するために幼い自分が身に付けてしまった癖」を取る。

少し難しく言うと、下の写真にあるように、

心理的防衛規制によって歪んだ現実を見ているのをやめてみたいということです。

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それは、釈迦やヌーソロジーの世界観に参画していくことと同じだと思っています。

 

ですから、上記の「好きなこと」「嫌いなこと」などの情報をまとめる時は、そういった心理に関連していそうなものをクローズアップしてみたわけです。

例えば、

「⑴好きなこと・嬉しいこと・ワクワクすること」は、

・サプライズを計画したり実行したりすること。

・自分だけの時間や好きな人と一緒にいられる時間がたくさん残されていると感じるとき。

・人よりも冷静でいられることを自覚する時。

 

「⑵嫌いなこと・怖いこと」は、

・セールスマンと話をしなくてはいけないときや、受付や窓口で社会の一員として話をしなくてはいけないとき。

・追い立てられたり追い詰められること。

・実家が商売をしていたので子供の頃からしょっ中、父の仕事に連れられて得意先の家庭に出入りしていたが、父や大人の人の中で自分に話題を振られると、恥ずかしくて何も言えなくなり、まるで「蛇に睨まれたカエル」のようになった。

そのとき子供心に社会環境への恐怖心が刻まれたきがする。

といった具合です。

 

実はこれらは全て、

「意識が外に向かう(周りが気になる)」ということになっていて、イデアサイコロジーを主宰されている春井星乃さんの分類方法で見てみると、

「タイプ5」

「タイプ8」

「タイプ2」

のどれかということになり、それらはさらに、

 

・口唇期タイプ(自分と自分じゃないものの抽象的世界)

「タイプ4」「タイプ5」「タイプ9」

 

・肛門期タイプ(身体対身体の世界)

「タイプ3」「タイプ7」「タイプ8」 

 

・男根期タイプ:(善悪の概念の世界)

「タイプ1」「タイプ2」「タイプ6」

 

の分類でみると「自分と自分じゃないものの抽象的世界」にあたるので、必然的に「タイプ5」ということになります。

 

そこで、タイプ5のところを読んでみると、

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つまり、僕が人から「考えすぎ」と言われるくらい考えるのが好きなのは、「環境からの脅威から自己防衛する手段としてあらゆることを解釈したい」からだったんですね。

 

子供の頃、父とお客さんの前で話題の的となり、どうリアクションしていいかわからず絶体絶命の窮地に立たされた僕は「二度とあんな思いをしたくない」という思いが無意識に働いて、藁にもすがる思いで思考に逃げ込み、「考える人」になったのでしょう。

 

しかし、次の写真にあるように、その囚われによる無我夢中の努力は、いつしか僕の長所にもなっているという成り行きです。

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ただし、「健全な状態」においては、ですが。笑

さらに過去を推測すると、そういった状況に抑圧を感じるようになったおおもとの原因は、口唇期に「欲求というものは常に満たされるものではない」という絶望を体験した可能性があるということです。

そういった出来事が抑圧となり、心理的世界の中で反復構造を生んでいるのだと思います。

 

春井さんの分析によると、タイプ5の場合は、「Ψ10」が「Ψ3」をなぞるところです。

レコードの針がそこから進まなくなっているような心理が生じているということなのでしょうか。。

父の仕事に連いていった僕は、そこにつまづいたという訳です。

 

乳幼児期の様々な出来事というのは馬鹿にできないと思うのです。

それまでは無垢だった精神が、生まれて初めて知る現実というのは、余命宣告や死にも匹敵する絶望だと思うのです。

 

口唇期の僕は、「ここぞ」という時にお乳を飲めなかったのでしょうね。

今度お袋に聞いてみるかな。笑

 

追記

文中で、

「意識が外に向かう(周りが気になる)タイプ」は、

「タイプ5」「タイプ8」「タイプ2」

としていますが、参考のために残りの2つの分類を紹介しておきます。

 

「意識が内に向かう(周りは気にならない)タイプ」は、

「タイプ4」「タイプ7」「タイプ1」

 

「社会的規範・常識を重要視(権力、上下関係が気になる)タイプ」は、

「タイプ9」「タイプ3」「タイプ6」

 

です。

それぞれ、

「口唇期」「肛門期」「男根期」

という列挙順にしてます。

仏教から解いてみたエニアグラム

先日Facebookにも投稿しましたが、6月の福岡ヌーソロジー研究会は、春井星乃さんによるイデアサイコロジーに触れる事が出来、たいへん貴重な機会となりました。

エニアグラム占星術についての解釈が深まり、そこに可能性を感じている今日この頃です。

 

占星術に関してはまだまだこれからですが、今の段階でエニアグラムについて特に言えることは、それが釈迦の哲学と同じような枠組み、ヌーソロジー的に言えば、同じような空間構造を持ち、その「階層性への参画」に学びの方向を持っているのではないか、ということです。

ここでいう階層性というのは、当然「ピラミッド的なもの」でも「ツリー的なもの」でもなく、潜在化や顕在化として接することになる「奥行き的な階層性」のことです。

 

今日はそれを少しお話ししてみたいと思います。

 

ここでポイントとなっていくのは「性格と自我の関係」で、それがやはり「奥行き的な階層性をなしている」という点です。

どういうことかというと、自分のものにしても他人のものにしても、性格というものを認めてそれについてうんぬんしているとき、その人は当然「自我」というものの存在を認める立場をとっているわけです。

なぜなら性格というものは「自我」が何らかの形であらわれ出ているものだからです。

つまり「そこに自我があるとき性格がある」そして「そこに自我がなければ性格はない」ということです。

ここでしっかりとイメージしたいことは、私たちが性格について思惟を始めた時、同時に自我が存在を始めており、その自我は任務を終えるまでそこで活動することになるということなのです。

ここでいう「任務」というのは、自分の生命を維持するためや、より良く生きるために何らかの行動を決断し、成果をあげることです。

一見それは正しい役割のようにも思えますが、自我は「他者の存在意義」に無知なので、社会生活において、「自他間の矛盾」や「情動」を増幅させることになります。

それらは私たちにとって好ましくないものであるとともに、顕在化や潜在化している状況を覆い隠し、盲目させているものだといえます。

 

自我を無視していくら性格分析を行っても結局のところその分析は「性格(=自我)が行なっている」のでしかなく、他者性を無視した行動を選択してしまうということになります。

 

皮肉なことに「自我」というものはこうやって「潜在化」という形を与えられること、つまり「水面下に忘れさられていること」によってその本領を発揮してしまいます。

 

性格というものがこのように操作しても無意味なものであるなら、エニアグラムは一体何のためにあるのでしょうか。

 

それは、9つの性格のタイプを「知る」ということに尽きる、と考えています。

つまり、その情報をもとにした思惑に基づいて見解を持ちそこに手を加える、といった関与をしないということです。

そこに生じている性格をただ見て、「ああ、タイプ5だな」という具合に、それをそれとして知ることが出来るようにするだけです。

 

ですから例えば書籍などによって性格のタイプを「知識」として取り入れたら、あとは無意識に「任せる」というような方法になります。

これは先程から言っている「自我に活動させない」ことと矛盾するように聞こえるかもしれませんが、決して放置しているわけではなく、「自己責任において任せる」ということが「無意識というものを自己の管理下に含め置く」という手法をとっていることになります。

 

つまり、これまでのように自分の意識が自我に踊らされるのではなく、エニアグラムの知識を与えた自我がどうなるか、ノータッチでその経過を見てみようとするようなものです。

 

エニアグラムに釈迦の思想と同じようなものが構造として垣間見れるということは、必ずその方向性を持っていると考えています。

釈迦は縁起という思考法において「無我」を説きます。

「無我」とは、決して「自我を無くした状態」をいうのではなく、「自己ならざるもの」であろうとしていることです。

つまり「自己」をきちんと定義した上で「そうではないもの」に住しているということであり、そのためには拠り所としての自己が必要なのです。

そして認識できる段階のものとして「自我」や「性格」というものが絶対に必要になります。

エニアグラムはその観点から「無我」に向かおうとするものなのではないかと推測しているわけです。

この辺りの説明を上手にするにはまだまだ研鑽が必要ですね。汗

 

まとめ

エニアグラムの情報、つまり9つの性格は人間が持たされているゲシュタルトで思考うんぬん出来るものではないと考えています。

なぜなら人間の思考は性格に基づくからです。

ですから人間の思考で性格を操作しようとするのは無理なのです。

ここで言いたいのは、エニアグラムは性格を「言語」によってではなく、「知覚」的に捉えようとするものなのではないかということです

もし性格がそのまま「言語による思考の流れ」に入ってしまうと「矛盾化」「情動化」してしまいますが、「知覚による思考の流れ」に入れることで「幾何学化」「情景化」することとなります。

それが「性格」に対する本来の捉え方なのではないかと考えてます。

 

性格というものは「知覚空間にみるべきもの」だということです。

エニアグラムは、それらが知覚に上がってくるように、知識として9つのタイプを「見え姿」として文章化してくれているのではないか、ということです。

ただし、私たちは常に何らかの矛盾や情動の中に身を置いている状況にありますから、そこから一歩下がって「性格」と呼ばれている対象を知覚として浮き彫りにするには多少の努力は必要となってくると思いますが。

 

9つのタイプがそれぞれ空間に知覚化されてくると、人間関係は空間構造を通しての成り立ちに集約されます。

そこにおいて純粋な自己と他者のやりとりに目がいくようになれば、思考や意識はこれまでと変わらざるを得ないと思います。

 

性格というのは貴重な「自我の後ろ姿」ということですね。笑

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あなた以外何も欲しくない 〜釈尊の論理学〜

こんにちは。

このブログでブッダ釈尊の話を担当するマイケル・シャクソンです。笑

 

突然だけど、君は異性に次のどちらのセリフを求める?

 

A「あなた以外何も欲しくない!」

B「あなたが欲しい!」

 

この二つのセリフは似たようなものだけど、微妙にニュアンスが違う。

それは「あなた」という言葉に持たせてる存在性だ。

 

どういうことかって?

それはね。

「B」の「あなた」に与えられている存在性は、相手が思い描いてる「あなた」だよね。

「本人が描いてる自分らしさ」とは全く違うかもしれないよね。

だから、このセリフを受け入れちゃったら最後、君は常に相手が思い描いてる「あなた」を無意識に求められていくことになるよね。

 

それに比べて「A」のセリフによって、相手に定義されているものは「あなた以外(の全て)」だよね。

だから、「あなた」はフリーだよねー🎶

 

つまり「A」の場合、「あなた以外を確定する」という方法がとられたことによって初めて生じた「まだ未確定の空間」に、自由度をもって「あなた」が存在している。

ここがポイント。

 

自分自身でいることが相手側にとっても好ましい。。

これって、大切なことだよね。

 

でも、うまく人に伝えるのは難しいよねー。

「ターゲットを確実に指ししめすことができる」方法によってだけ、初めて本当に概念の共有ができるというもの。

正確に想いを伝えるには、やっぱり論理性に訴えることの出来ている表現がとても必要。

 

ここには因果律という法則が働いてて、こういう「倫理と論理の接点」が人に確信を与えるんだ。

釈尊はこれらの方法を使って弟子に教えたんだよ。

その中の一つが、ここで紹介した「それは〇〇ならざるものではない」という言葉の配列によってターゲットを限定する方法だよね。

よく出来てると思わない?

 

釈尊が「一切を知る者」と呼ばれるのは、例えば、君の昨日の晩ゴハンのメニューまで全部知ってるって意味じゃない。笑

会話の中に「それ」と「それ以外」を配置してみせることで「認識可能な全て」つまり「一切」を露見させる。そうすると「不安要素」が居場所を無くし、やがて確信に変わる。

このような、思考と心境の共同作業によって確信を持つ方法は、大脳が単独で行う「煩悩」ではなく、間脳との連携による「智慧」なんだねー。

 
こういう場面には、日常にない特別な瞬間が存立される。

それは、「とにかくそうなんだ」という確信なんだ。

唯物論的に見れば、その瞬間その空間においては倫理性と論理性が実際に運動しているともいえる。

それを量子学の数式がどう表現しているのかということは、僕ももっと勉強しないとね。

 

ちなみに仏教ではその出来事を「如く来る」と表現し、「如来」という名称で対象化している。

如来」を常に礼拝の対象とすることで、倫理や論理の単独による暴走が監視されてるんだね。

 

まぁそんなことより、また誰か言ってくんないかなぁ。

どっちのセリフでも構わないからさぁ。。

 

イラストは、絵描きで脳幹セラピストの藤田マイ子さんにわざわざ描いていただいたものです。

↓藤田さんアメブロアドレス

https://ameblo.jp/taiyou-tsuki-hoshi

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2019.04.14 加筆、修正しました。

 

クロスロードとしての思弁的実在論

最近は哲学を、ほんとに少しずつですが読めるようになってきて、この度のヌースアカデメイアのメルマガにも掲載された半田広宣さんの紀要論文も、大筋の意味を解しながら目を通すことが出来ました。

その中で紹介されている思弁的実在論者メイヤスーの一文が自分のイメージに登場してくるワンシーンと一瞬重なって見えたのです。

私の解釈がメイヤスーの意図することかどうかはその著作をまだ読んでいないのでわかりませんが、問題はメイヤスーと同じ行き先に向かっているかどうかではなく、そのワンシーンを思考の交差点として共有しているのではないかということです。

紀要論文の引用から始めさせていただいてます。

 

以下引用

『従って、メイヤスーが提唱する思弁的実在論の世界では「あらゆる世界は理由なく存在し、したがって、あらゆる世界は実際に理由なく他の在り方に変化することができる。それには一切理由はない」(7)ということになる。』

以上引用

 

メイヤスーの「世界が理由なく存在する」というのは「世界がその自らに理由を存在させない」という手段によって「そこで人間が理由を創作していくためのフォーマット」を目的している、ということを言いたいのではないだろうか。

これではまだ説明不足だと思うので続ける。

「理由」という言葉の意味は「目的」という未来と「由縁」という過去の両方に分けられていく。

どういうことかというと、例えば、ストーブなどが「温かい理由」は、「人が暖をとるため」という「存在の目的」と、もう一方「灯油を燃やしている」という「存在の由縁」という二つにある、ということだ。

そして問題の「理由がない」という言葉は、それを「何々の理由がない」ということにすり替える事をしなければ、「理由がない」、のそのままの意味は「存在の目的」と「存在の由縁」の両方がないということ。それはつまり、決して「存在がない」と同義なのではなく、「目的と由縁の両方がない存在」つまり「未来と過去が無い存在」なのであり「意志と意識が無い存在」ともいえる、それは前回のブログにも記した「不在の存在化」なのだ。

 

まとめると、「世界は理由なく存在する」は「世界は理由がなくても存在する」というアクセントで読むのではなく、「世界は理由がないことで存在する」つまり「世界は理由の撤廃に存在の根拠をもつ」と読むアクセントで読むものであり、それは静的な「初めからの不在」ではないことが条件となっており、「理由の撤廃」、一歩譲っても「理由の消滅」が動的に起きているのである。

そしてここでこの消滅に関わることができるのは先述した「不在の存在」しかありえないのである。

この「不在の存在」とはまさしく「無意識領域」のことである。

 

前回のブログにはこの「理由が撤廃させられている世界」の事を「完全な自由運動」として表現し、それは我々の五感の付帯を待機するものであり、対象はそこで、決して「対象同士が相互作用をする場に見られる性質」の統一体としてではなく、「五感をはじめとする認識の性能にその存在投影の限定性を許し差異」として姿を見せている、ということを説明した。

そのシナリオの続きとして、ここにこの「無意識領域への存在論的接続」がなされるのである。

「無意識領域」に存在論的な連結部を見出せたことだけでも大きな進展だとは言えないだろうか。

そしてさらに「無意識領域は素粒子構造である」というところまでいければ、この思想は我々が世界を差異的対象として視るだけの十分な強度を持つことになると考えており、今後その作業に関わり、貢献出来れば幸いである。

 

〜いずれにしても私はメイヤスーを一度読む必要があり、ここで私の受け取ったこの「世界は理由なく存在する」という文を、メイヤスーへの方向転換の交差点とするのか、直進していく我が道の単なる通過点とするのか、是非見極めておきたいと思います。

 

文中引用

半田広宣氏

「思弁的実在論は哲学の暗殺者か」

ー偶然性の必然性と反転性の必然性というオルタナティブ

興味のある方は、ヌースアカデメイアの「Paper of Gilles Deleuze」のコーナーにも掲載されるそうですのでご覧になってください。

https://noos-academeia.com/archive.html

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量子論を含む最終的構成のための三者会談

完全な自由運動というものをイメージしようとするとき、何となく自由運動という言葉の響きからそこに「美しさ」や「躍動感」を想像するのだが、実際にはそれは反復動作や周期性、さらに持続性においても縛られていないという点において、実は取り立てて認識できる習性すら見当たらない、いわゆる、監視カメラが捉える意味のない動画のような「何でもないことの連続」ということになるのではないか。

問題はそのような様相は果たしてそれを視るものに何かしらの認識を与えることが出来るのかということだ。

反復もない、周期性のない、持続性もないという、記憶として前例のない「無感覚」によっては、そこに何かの習性を見い出すことはないだろう。

認識がないことの連続、それは覚醒のタイミングがないということ、つまり眠りと同じである。

しかし、まさにその眠りの様相が存在の唯一の住処なのではないだろうか。

存在の隠蔽性ということにおいてもそこは静かな背景となっており、意味も象徴も反復も持続も伴っていない様相にあって、それを何かの状態であると規定できるのなら、それは「存在の不在」ではないか。

存在の出自は本来、「このようなシーン」に我々の五感を「付帯」させるとき、それに関わる我々の諸器官の性能や精度、さらに目的として働いている思惑や見解以外にその対話の方法を依存する術はないのであり、その限定性によってのみ生成され発せられている感覚を「消滅されつつある自由」として読み取らなくてはならない。

 

対象というものは、それが被観察的な立場にあることから常に「様々な性質の統一体」として体(たい)を持ち、そこにその肖像を射影させているもののように視られてしまうのだが、実はそのような「存在の主張」が可能な余地は先述した理由からそもそも持つことが出来ない。「存在の不在する意味のない状態」即ち「自由運動」を我々に拘束され、その牢獄の中の姿として我々に受け取らせている「仕方なさ」や「自由運動における可能性消滅のジレンマ」の作用している方向に意味を置かれた感覚に他ならない。

だから、もともと別々の牢獄にいる対象同士は本来それぞれが差異の種子であったはずなのである。

ところがそれら複数の対象を「思惑」や「見解」という同じ牢獄の中に置くことによって、差異の種子を失わせるだけでなく、そこは囚人同士による相互作用が可能な余地を含むことから、我々がその「存在の抗争」を衝動として受け取る羽目になっているのだ。我々が「拘束されていることに持たされている存在の意味」言い換えると「非局所を起源とする局所」をそこに視ることができないのは、局所間で起きている喧騒の中にいるからなのだ。

我々が思惑や見解をもって生活するとき、対象を自由運動から隔離したという拘束の動機は、思惑や見解の動機と共に恥部の一部として隠蔽され、その認識行程からもみ消されているのである。

かくして、始まりは自由運動ではなく一義性として規定され、恥部の無さに胸を張る我々に存在の情報化と搾取の姿勢は整えられたのである。

 

我々が生活の中で、思惑を挟むことや、人や物を分け隔てするのをやめるとき、それらの個々に持たせていた「括り」が解かれ、個々は相互作用の余地を失う。再び拘束性による個別の牢獄が復活するようであるが、それは今や自由からの拘束ではなく「存在の抗争からの自由」となっており、牢獄ではなく宮殿の中の姿として差異の中に生じることとなる。

同時にその時、我々の意識の媒体は「差異の躍動」ということになる。

それを目的としている限りにおいて、我々が生活の中で、思惑を挟むことや、人や物を分け隔てするのをやめる力は、躍動である「生死の差異」に触れたい誰もが持つごく当たり前の習性による。

 

最後にふと思い出した釈尊臨終の言葉を紹介します。

「さあ、今、比丘たちよ、わたしは告げる。『滅する性質のものは、諸々の事象なのである、怠ることなく修行しなさい』と。」

これが、論理哲学が全盛期であった当時のインドの民衆を悉く歓喜させた教えであるということに感慨深いものを覚えます。

 

全てが出揃うことが前提である「最終的構成」には、新しい哲学や科学に加え、このような古い教えもその正しい解釈をもって、きっと大切な要素なのです。

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